2004年10月22日(金) |
『雨やどり4』(マイフェア。何か緒方さんが主人公っぽいぞコレ…) |
緒方が店から裏手の方へ辞すと、美登里はやれやれ、とため息をついた。
「すいませんねぇ。進藤さん。ヒカルちゃん。あの子、どうもああいう所は融通きかなくってねぇ…」 「いえ…若いのに、けじめを通すことができる、良い青年じゃないですか」 今時の若い者では、なかなかああはいきませんよ……と正夫が頷くと、美登里は団扇を口元にあててくすり…と笑った。 「ふふ…あれはねぇ…あの子の父親の影響なんですよ」 「お父さん?緒方さんの?」 ヒカルも、興味深げに身を乗り出す。 美登里は進藤父娘に団扇でゆったりと風を送りながら、頷いた。
「あたしの弟が、あの子の父親なんですけどね。宮大工をしてたんですよ。男の子ですからね、当然、大工道具に興味を持って、触ろうとしてたんだけど……そのたびに、こっぴどく怒られてねぇ。よく泣いてましたよ」 「うわ…想像つかない……」 ヒカルの呟きに、美登里はくすくすと笑った。 「そりゃあ、まだ小学校にも行かない小さな頃だもの。早くに母親を亡くして……父ひとり、子ひとりの、そりゃあ仲の良い親子だったけど、弟も、「大怪我させちゃならねぇ」…なんて、仕事道具の事に関しては厳しかったからねぇ。よく泣いてはウチに転がり込んできたもんですよ。泣き疲れて眠った頃に、弟が暗い顔して迎えに来るのさ。「叱りすぎた」ってねぇ」 まったく、後悔するんなら、泣くほど叱らなきゃ良いのにねぇ。 美登里は、どこか遠い日をなつかしむように目を細めた。 正夫は、そんな彼女の語り口と視線に、まさか、と思いがよぎる。
「結構ガンコ者なお父さんだったんだね」 「ああ、良く似てるでしょう?」 「…ふふ、そうかも。でも一度会ってみたいなぁ」
ヒカルの無邪気な言葉に、美登里が団扇を動かす手がはたと止まる。 「?…どうしたの?」 「ヒカル」 なおも問う娘を、正夫は制した。 やはり、先程感じたものは、気のせいではなかったのだろう。
「弟もねぇ……もう、いないんだよ。交通事故でねぇ。あの子が、小学校に入ってすぐの年に」
苦い微笑み、というものは、こういう表情を言うのかもしれない。 それほど、美登里の表情は憂いに満ちて……しかし確かに、微笑んでいた。
「だからなのかねぇ。父親に叱られた事が、余計に思い出として残ってるみたいなんですよ。だからああいう場合であっても、変に厳しい言い方しかできなくて……。ごめんねぇ、ヒカルちゃん。女の子にあんな事を。気を悪くしただろう?」 ヒカルはううん、とかぶりを振る。 「そんなことない。オレ、こういうの、あんまり知らなくて……だから、知らないままに、変なことしたり失敗したりするんだ」 何をしたんだ、と正夫は内心冷や汗をかいた。 娘はそんな父親の視線を感じて、へへ、と舌を出す。 「たいていは、まだ若いから…とか、プロになったばかりだから…とか、女の子だから……って、笑って許してくれたりしてたけど、緒方さんだけは、違うんだ。絶対許さない」 「まぁあの子の性格からしてそうだろうねぇ」 「多少の破目を外すのは結構許してくれるんだけど、―ほら、囲碁の世界って、しきたりとか、約束事とか、結構あるじゃない。それをさ、叱りながらでも、ちゃんと教えてくれるんだ」 ――自分にも、分かる言葉で。だから納得できる。だから頷ける。 榛色のあの視線は、時々ひどくイジワルだけど、嘘をつかない。 ――だから。
「………………」
正夫は、そう言って微笑む子の姿を、黙って見つめるしかできなかった。 まだ子供だと思っていたその子が、「娘」として、成長しつつあるのを、目の当たりにしたような気がして。
何となく喉の渇きを覚えて正夫が一口麦茶を飲んだ時、店先でエンジンの音がした。 「あ、緒方さんだ」 ヒカルはひょい、と立ち上がり、うす青の縞のしじらの裾をけたてて上がり口に駆けてゆく。 ヒカルが雪駄をつっかける前に、緒方が暖簾をくぐって顔を出した。
「車、用意しましたので……」 「はい、ご苦労さん。ヒカルちゃん!この袋に入ってるの、ヒカルちゃんとお父さんの服だからね!帰ったらすぐ洗うんだよ、匂いがついちまうから!」 「は〜い」 「すいません、何から何までお世話になって……」 「いいんですよぉvv。…さ、遅くならないうちにお帰りにならないと。忘れ物はありませんね?」 「え、ええ。もとからこの鞄ひとつですし、服はヒカルが持っているようですし……」 「ちょいと、精ちゃん!安全運転でお送りするんだよっ、雨の中なんだから、スピード出すんじゃないよっ!」 美登里の早口に、緒方は苦笑しながら頷く。 「了解しました。美登里伯母様。……では、進藤さん、行きましょうか」
緒方は、正夫の前に男物の少し古びた雪駄をそろえた。 足に馴染む履き心地に、ふと、目の前の青年がこちらをじっと見ているのに気がつく。 「…もしかして、君のお父さんのものかな?」 ――着物も、雪駄も。 ぴくり、と彼は表情を動かしたが、やがて彼はふわりと笑った。 「いいえ…着物は父のものですが、雪駄は、私の履き古しです。――使い古しばかりで、申し訳ないんですが」 その苦いような切ないような…微笑みは、女将に似ているな、と思った。 「いいや、よく履き慣らしてあるから、とても履き易いよ。ありがとう」 そして、自分の仕事道具である黒の鞄を左手に提げる。
「そういえば、ちゃんと自己紹介していなかったね」 「は」 「私は、進藤正夫。久住證券で営業を担当しております。…ご存知の通り、進藤ヒカルの、父親です」
名刺がなくて悪いね、と正夫が微笑む。そんな表情が、どこか、ヒカルに似てような気がした。 「緒方精次。棋士です」 ……気がつけば、緒方は正夫に手をとられ、握手を交わしていた。流石、営業というのは伊達ではないらしい。いつのまにか間合いに入られている。…しかしそれでいて、不快な感じはしない。
改めて間近で見ると良く分かる。囲碁という、勝負の世界に身を置く人間の気迫。この若さにしてにじみ出る不遜なほどの貫禄。長年石を持ってきたであろう、固い指。 ひょっとしたら、結構有名な棋士なのかもしれない。正夫は、後でインターネットで検索して調べてみよう、と思った。
「…なにしてんの?ふたりとも」
一度車に乗り込んだ筈のヒカルが、ひょい、と暖簾から首だけをのぞかせた。後に来るはずの二人が来ないので、下りてきたらしい。
その瞬間、ふ、と握手は離れた。
「お前の先輩に、挨拶していたんだよ」 いつも、お世話になっているんだろう? くしゃり、と正夫は娘の髪をなでた。
「………………」
何とはなしに。 緒方は、差し出したままの右手の行き場がないような気がして。 少しだけ、面白くなさそうに眉をひそめた。 そして。
それはそれは楽しそうな伯母の表情に気付き、ふたりに気付かれないよう、じろり、ときつい一瞥をくれたのだった。
ふふん、と、鼻で笑われてしまったのだが。
雨は、まだ止まない。
けれど、雨やどりはもうおしまい。
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