2004年11月24日(水) |
『黄金(きん)色の湯気』(ヒカル15歳) |
対局を終え、検討して、棋院を出たのは夕方の5時。 ――なのに、夕方なんて言えないくらいに、周囲はすっかり暗くなっている。 その上ヒカルに吹き付けてくる風は冬のものと言って良いくらの冷たさで。
「……さむ…っ」
ヒカルは身を震わせながら、薄手のブルゾンの前をかき合わせた。朝、家を出たときは、すっかり日も上がっていたから、母親が差し出したマフラーを断ったのを少しだけ後悔する。 しかも、確か今夜は両親が家にいないのだ。 せっかくの紅葉の季節、父が珍しく平日に連休を取って夫婦水入らずで温泉旅行に行っている。 ヒカルも…と誘われたのだが、対局日でもあったし、両親と一緒、というのもわずらわしいやら気恥ずかしいやらだったし、むしろ両親が家にいない方が、自分の好き勝手にできる……という打算から、同行を断り、ためらう母親を何とか言いつくろって旅行に追い立てたのだ。 いつもなら祖父の家に転がり込むのだが、祖父は一昨日から宮崎にある知人の、焼酎の蔵元に招かれ、嬉々として出かけていった。
寒い夜。 きっと家に帰っても、灯かりはついていないだろう。
(去年は、ひとりでも、ひとりじゃなかったのに……)
――ふと、そんな思いがよぎって、ヒカルはぶんぶん、と頭を振った。 あれはもう、過ぎてしまった時間。 いまはもう望むべくもない。
「……もういいかげん、慣れなきゃ……な」
ヒカルは白い息をひとつ吐いて、ぶるり、と震えた。
――そう。慣れなきゃいけない。 「ひとり」でいることに。 傍らに「彼」がいないことに。
…ふと、周囲を見回してみても、今日は高段者の対局日だからヒカルの顔見知りは誰もいない。数少ない知人は、地方対局だったり、指導碁の予定が入っていたりしていた。唯一見かけた冴木は、予定があったのか対局が終わるとすぐに帰ったようで、ヒカルが検討を終えた時には、姿が見えなかったのだ。 年かさの棋士たちは皆、和やかな顔で、別れを告げて家路についたり、これから検討がてら一杯行こうか、と談笑してはヒカルの横を、前を過ぎ去ってゆく。
ヒカルはぎゅ、と唇を噛み、一歩踏み出した。
【パン,パン,パパン,パ,パ,パン,パパーン】
能天気に明るいメールの着信音に、ヒカルは出鼻をくじかれた。 「誰だよ〜。――ってか、こんな着信音設定したっけ?」
ケイタイを取り出し、手早く操作してみると、とある文章が現れる。
【芙蓉苑にいる。食い損ねて後悔する前に来い/O】
文面を見て吹き出した。 こんなメールを送ってよこすのは、ひとりしかいない。
【わかった〜。今棋院にいるから、すぐ着くよ。…おごりだよね?(^-^)""/☆】
送信してすぐにぱちん、とケイタイを閉じると、ヒカルは何度か彼に連れて行ってもらった中華料理屋に向かって足を踏み出した。 確認はしたけれど、彼相手なら、おごりなのはまず間違いない。
「ラッキー♪」
ヒカルの足取りは軽く、その歩みに合わせるかのように、返信の着信音が軽やかに鳴った。
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