2004年11月29日(月) |
『黄金(きん)色の湯気2』(ヒカルと緒方さんと、へんな店) |
目的の店は、棋院からほど近いビルの地下にある。 …しかし、その目印はというと、板きれに『芙蓉苑』と書かれた古ぼけた看板が、地下への階段の入口に無造作にひっかけられているだけだった。 おかげでそこが店だと知っている人もほとんどいない。 おまけに店主はあっけらかんと言うのだ。
『ほら、あんまり混むのんは嫌やし〜』
それで儲かっているのかどうかは甚だ怪しいところなのだが、店主はおっとりと微笑むばかりなのだ。 そして、そんな彼が作る料理は、とっても美味しい。 ヒカルは白い息を吐きながら、店へと続く階段を降りていった。
階段を降りきった目の前には、何の変哲もない、アパートみたいな古びたドア。 そして、たまに紛れてくる客や、常連に連れられて来る初めての客は、たいていこのドアを開けると、一様にひいてしまう。 ――何故なら。
「こんばんわ〜」
ドアを開けたヒカルの目の前に広がるのは…… 一面に敷かれた絨毯。中央に鎮座ましますこたつ(みかんのオプション付)。その前にはテレビが何かのバラエティを映し出し、食器棚や本棚がごく普通に並んでいる。空いたスペースには、座布団やクッションなどが散らばっていた。 手前にある丸い石油ストーブには、ヤカンがかけられ、しゅんしゅんと音をたててお湯が沸いていた。 ……まるっきり、ごく普通の一般家庭の居間である。 だからこそ、「偶然」此処に来た者は、「失礼しました!」…の声とともに去っていってしまうのだ。 一応、完全予約制の料理店『芙蓉苑』。タウンページにも載っていないその店の実態は、思いきり普通の家でくつろぎながら食事をする、「隠れ家風」をかなり極端にしたものだった。 そして客は玄関で靴を脱ぎ、店主が作ったその日の「ごはん」を食べるのである。 一番広い部屋はここだが、その他、ソファセットやクッションの類が充実した洋間や、畳敷きの和室もあるらしい。ヒカルはまだ、その部屋に入った事はなかったけれど。
ヒカルも前回教わった通りに靴を脱ぎ、下駄箱に入れた。
「ああ、来た来た。いらっしゃい〜進藤くん」
こたつに入ってぬくぬくと煎餅とお茶を楽しんでいたおっとりとした青年が、おいでおいで、とヒカルを手招きする。 「寒かったやろ〜。今お茶入れるさけ、おこた入り」 まさしく「はんなり」とした響きの京都訛りで話す彼が、この『芙蓉苑』の店主だった。 「ありがと。…緒方さんは?緒方さんにメールもらったからココに来たんだけど」 「ん〜?洋間で寝そべって本読んどったみたいやけど……寝てしもたかな。…ま、そんならそれでええわ。放っておいて、ごはんにしよか。鍋とおかずあっためてくるし、深皿と取り皿とレンゲと箸出しといて」 「あ…はい」 「場所、分かるか〜?」 「この食器棚の中の、どれでもいいの?」 「どれでもええで〜ま、適当に」
店主はごそりとこたつから出ると、台所の方に向かった。 此処では、食事に使う食器も自分で用意するのがルールだ。ヒカルは店主の煎れてくれたお茶をひとくち飲んでから、こたつを抜け出した。 今ここにいるのは店主と自分のふたりだけだが……一応、緒方の分と合わせて三人分の食器を用意する。
台所からふわり…と美味しそうな匂いが漂ってきて、ヒカルのお腹がくるる、と鳴った。 …緒方はまだ居間の方に出てこない。 (…やっぱ、起こしに行った方が良いかな。誘ってくれたのは緒方さんだし)
「梁さん、緒方さんのいる洋間って、どっち?」 ひょい、とカウンターから台所を覗くと、店主は意外そうにまばたきをしてみせた。 「寝とるアイツが食いっぱぐれるのはアイツのせいやのに……優しいなぁ。…ええんか?アイツ起こさんかったら、おかずの取り分増えるんやで?」 真顔で言うあたりが流石緒方の知己というべきか。ヒカルは店主の言葉に苦笑してみせる。 「…ん〜、でもさ、「今日ココに来い」って誘ってくれたの、緒方さんなんだもん。やっぱ悪いよ。起こさなかったら、気になってゆっくりごはん食べられそうにないしさ」
ヒカルの返事に、店主は目を糸のように細くして微笑んだ。
「…せやて。進藤くんが優しい子でよかったなぁ。おがやん」 「……その名で呼ぶなと何度言わせる気だ、オマエは」
ヒカルが慌てて振り向くと。
そこには、「あきらかにさっきまで寝てました」といった風情の緒方が、不機嫌そうに立っていた。
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