ライブの次の日はいつも 空しいような ひとりぼっちの気分になるのである。 なぜだろうか?
空をみると 自分が空のような気分になり、 畳にねころぶと 自分は畳のような気分になり、 すぐに景色と同化してしまって 自分がどこにいるのか わからなくなってしまう感覚である。
やっとやっと夜になって 生きた心地がしてきたところである。
帰宅時にポストをのぞくと 種の起源の友だち(6/3の日記参照)から つまみ菜と葱とバジルの種がとどいていた。
宛名には、 わたしの名前(様)と ちょんすけの名前(殿)と書いてある。
つまみなはちょんすけにも、 ということなのだ。
なぜ わたしが“様”でちょんすけが“殿”なのか という謎はおいといて。
なんだかこう手紙に ふたりの名前をかかれると、 ひとりぐらしではない意識が 高まってくる。
ちょんすけは わたしにとって なんなのだろうか?
子どもという感じでもなければ恋人でもない。 ただの同居鳥。 それとも、 友だち以上恋人未満とか (文字にするのが恥ずかしいコトバだ) そういう感じなのだろうか?
ちょんすけ宛に知らない女から 手紙がきたりすると わたしも気になって詮索したり してしまうのだろうか?
うーん。 思春期の娘を持つ父親の気分に 思いを馳せてみた6月の夜。
今年は百姓気味になりそうだ。
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