unsteady diary
riko



 薬害エイズ

28日、薬害エイズ訴訟の安部被告が無罪になった。

…………………信じられない。


この問題は、求刑の内容でさえ、個人的には軽いような気がしていた。
実際手を下したわけでないということ、法律の難しさは、想像するけれど。
それでも、世論と、専門家の意見とが、なぜここまで乖離してしまうんだろう。

まだ考えがよくまとまらない。
知ってることが少ないということもあるし、正直、ニュースから情報を得る程度で、他人に罪を問えるのかっていう部分はある。
それでも、納得のいかない結果であることだけは、確かだ。


「疑わしきは罰せず」が法律の論理。
「疑わしきは使用するな」というのが、薬害に関して医療側のとるべき論理ということなのだけど。(←りょうかさんの日記を参考に)

この溝、ほんの少しでも埋めることはできなかったんだろうか。

大手を振って、なにひとつ責任がないと言う安部被告を、
その体に加えられた暴力として、薬害エイズを考えている人たちが、
どんなふうに受け止めるだろう。

私のなかでは、その姿は、慰安婦問題と重なった。

彼女らが裁判で戦ったのは、喪われた自分を取り戻すためだ。
慰謝料が欲しいからだと、まるで守銭奴のように言われたこともあったようだが、
けっしてそうではないと私は思う。
自分の体に加えられた暴力を、暴力としてまわりが認めて、はじめてその人は過去と向き合うことが出来るから、だから戦うのだ。

ちょっと説明すると。
従軍慰安婦問題は、戦後、女性側の「恥」として隠すべきものと扱われてきた。
だが、戦後50年ごろを境に、恥として忘れるしかなかった過去を、あらためて加害者側の「罪」として問い直し、自分を取り戻そうとする動きが、女性側から出てきたのだ。
それがいわゆる慰安婦問題と言われるもの。
最近になってようやく、「慰安婦(なぐさめる→能動的)」という響きさえも躊躇われるほど、それはレイプという暴力なんだと、認識されるようになってきたわけだ。
いまだに一部の日本兵は、「懐かしい思い出だ」と語るらしいけど。
認識の溝の深さに、ため息をつくしかない。

これと同じ図式が薬害エイズ問題にも見られる気がする。
名前を公表することさえできなかった時代を経て、やっと彼らは被害者なんだという認識ができてきたけれど。
それでもまだ、加害者が不在のまま。
犯罪が犯罪と認められることなく、このまま隠蔽される第一歩が、今日の判決であるような気がしてくる。

なにも、悪者探しをしようというわけではない。
それで命が帰ってくるものでもない。
ただ、犯罪が隠蔽される社会構造が変換することなくこのまま続くなら、
また同じように加害者のない薬害が、繰り返されるかもしれないということだけは絶対に忘れてはいけないと思う。


2001年03月29日(木)
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