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宝物 - 2001年01月21日(日) 昼から、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観に行きました。 行く前までは、あまり乗り気ではなかった。 理由は、あの子が「みたい」と言っていたから。それに対して、私は「まだ泣ける映画は観たくない」そう答えてたから。 でも、観に行きました。一緒に行ったのは、もう、幼稚園以来の幼なじみ。 私がだめなところも、弱いところも、彼には隠しておかなくてすむから、楽。 変な奴だけど(笑)。 映画の内容は、難しいところ。 続けて二度観たいとは思わなかった。「映画」というよりも、ドキュメンタリーを観ているようだった。 音楽は、良かった。ビョークは、やっぱり歌ってるときが似合ってる。圧倒的な「声の存在感」。小柄な彼女のどこからそんな声が出るのか、いつも不思議に思う。 そして、カトリーヌ・ドヌーブの気品。どんな格好をしていても、彼女はとてもきれいでかっこいい。凛とした強さと、優しさ。あんなふうに年をとりたい。 映画のなかで、陸橋の上で「見るべきものがあるの?」そう、言って歌うシーンがあるんだけど、映画のエンディングで流れる歌の歌詞は「見ていたい」と歌う。そのギャップがとても、悲しくて、私は、彼女が死ぬシーンよりも、そっちの方が印象に残った。 そして、自分の死と引き換えに息子の「視力」を救う。 「彼には母親が必要」そういってビョークを救おうとする、カトリーヌ・ドヌーブにビョークが「必要なのは『視力』よ」と答える。 あれは、「母親」だと思った。 息子が、これから他の人と同じように生きていけるように、大部分の人と同じようなラインに立てるように。「障害」というハンデを持たないように。 それは、「遺伝するとわかってて」子供を産んだ、『この手に赤ちゃんを抱きたかった』自身のわがままの犠牲になった息子への彼女の文字通り「命を懸けた」償い。 でも、彼女は知らない。 「視力」というハンデはなくなっても、「母親がいない淋しさ」というハンデを、息子はずっと背負わなければならないことを。 どちらが、幸せなのかはわからないけれど。 ひょっとすると、そんな母親の愛情は一種の自己満足でしかないのかもしれないけれど。 それでも、彼女は、彼女にとっての宝物を守って、本当は幸せな一生の幕を閉じたのかもしれない。 刑務所の中で「怖い」と泣くシーン。 「今」の自分はいる。「昨日」の自分もいた。でも、「明日」の自分はもういない。 「先週の今ごろは・・・」よく想像するけれど、それが、自分が死ぬ前日であればどうだろう。「明日には、自分はいない」それが、現実として自分に降りかかったものであれば、私はどうするだろう。 その場で、すぐに自殺をするかもしれない。 映画を観ながら、そんなことを考えた。 そう言えばこの映画、何がすごいって、ラスト近くになるにつれ、会場からすすり泣く声あちこちから聞こえてくる。はっきり言って、「タイタニック」を観に行ったときよりもすごかった・・・。 そして、家に帰るとやっていた「ライフ・イズ・ビューティフル」を観た。 今日は映画づいてる日かも(笑)。しかも、決してハッピーエンドではないものばかり・・・。 この映画も、円満解決ではないけれど、何となく「マイ・ライフ」を思い出した。 癌で、余命幾ばくもないと知らされた男が、生まれてくる子供のために人生のいろいろなことをビデオに撮って残すという映画。 「ライフ・イズ…」は最後の、お父さんの「これが僕の人生」といったナレーションで一気に泣けたなあ。 「ライフ・イズ…」のグイドも、「ダンサー・イン…」のセルマ(ビョーク)も、自分にとっての「宝物」を守るために自分の命には無頓着だった。 けれど、だからこそ彼らの「宝物」は守られた。 「宝物」はいつかきっと、気付くんだろう。 自分が守られていたことに。どれほど大切にされていたかを。 そして、誰に守られ、大切にされていたのか。 気付いたとき、彼らは何を思うんだろうか? -
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