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私にかけている感情 - 2001年05月08日(火)

今日は、親戚(といっても、それほど近いというわけではない。近くに住んでいるので年に何回か、顔を合わせる程度だけど)のおじさんの通夜に行ってきました。
おじさんが亡くなったのは、私が中国から帰ってきた夜、つまり、日曜日の深夜。
通夜が今日になったのは、日が悪かったから。

久しぶりに、正座をして、足がしびれてしまいました。
昔は、何時間でも正座できたのにな。

最初は、それほどでもなかったけれど、通夜が始まり、お坊さんがお経を読み上げ、焼香が始まると、そのおじさんの奥さんや娘さんたちが声を上げて泣き始めました。
通夜には、親戚や、近所の人たちが数は多くはないけれど、きていました。
その様子を見ながら、自分が亡くなったとき、果たしてどれだけの人が焼香に来てくれるのかと考えました。
それほど多くの人を望むわけではないけれど、全然来てくれないのも、淋しいなと、その時思いました。

お坊さんがお経を読み上げている間、「悲しい」という感情について考えました。

私に、欠けている感情の一つのような気がします。
「悲しい」と感じることはあります。
それでも、泣くほどの「悲しさ」を私は今までどれだけ体験したのでしょうか。

泣いても、泣いても出てくる涙というのを、一度経験したことがあります。
「よくまあこれだけ泣けるものだ」と、悲しむ感情の中のどこかで、自分で呆れたことも、覚えています。

あのときに、私は「悲しい」という感情を使い果たした気がします。
決して「泣く」ことが悲しさのバロメーターになるわけではありません。「泣く」行為は悲しさを外に吐き出す行為です。
悲しさを吐き出して、次に向き合うための、儀式です。
けれど、悲しみすぎた感情は、たとえ泣いたとしても外へ出ることはなく、重くて、硬い固まりのまま、私の「悲しい」と感じる感情の出口をふさいでいる気がします。

あの子のことも、その固まりをどかすことはできなかった。

悲しくて、悲しくて、仕方がない感情を、私は覚えている。
けれど、
悲しくて、悲しくて、仕方がない感情の出し方を、私は忘れてしまった。











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