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2010年10月09日(土) |
槍平弔い山行 2/2 |
槍平小屋に向かう途中、無人の穂高平小屋の前で今回はここまでと言って休憩していた老人と少し話した。土地の人だった。弔いに槍平に行くのだと言ったら、あれと同じちょっと考えられない所、わさび平の辺りでも今年雪崩が起こったと言った。 行って分かったのだか、今年二月槍平の小屋も再び雪崩で、二階建ての小屋二階左部分の窓枠が吹っ飛ばされていたようだ。 新穂高ロープーウェイ横の沢の大規模な工事は何かと聞いたら、毎年の雪、それが沢を根こそぎ持って行く。まったく徒労の毎年毎年の繰り返し、果てしなき治水事業だといった。 これを聞いていて、ドイツの画家、フランツ・V・シュトックが描いている「シジフォスの岩」、シジフォスの神話を思いだした。現界で兄弟間の王位継承を発端に問題を起こし、黄泉の国の者となるが、言葉巧みに三日だけ現界に戻してくれと頼んで戻って来るも、帰るのを拒み現界に居座るが、連れ戻され罰を与えられる。 それは、巨大な石を山の頂まで運び上げる事だが、山頂付近で其の石は麓まで転げ落ちてしまう。これを時空を超えて永遠にやり続ける話で、これを読んだ時のぞっとした感じは、永遠に生きるという事を考えた時の感じと似ていた。また、そんな事はこの世にあり得ないと思っていたが、老人が言ったこの毎年の徒労とも言うべき、日本が続く限り続くと思われる治水事業はまさに「シジフォスの神話」そのものだと思った。 いつだったか田舎の冬山で、「いつか二人で冬の北鎌尾根(「伝説の単独行者と言われた加藤文太郎が、めづらしく友人と共に目指したが、遭難。30才の生涯を閉じた。」の影響を受けていた)を一緒にやる事を約束してくれ」と半ば脅迫まがいに言われた事や、和歌山の徳島行きフェリー乗り場で心臓発作で倒れ、後輩と病院を訪ねたら、病室に居ず,探したら病院の細い通路の両壁を*チムニーに見立てて攀じ登っていた事などが思い出される。その後、結婚し男の子二人に恵まれ、二人を連れての山行きが楽しいに決まっている筈で、京都国体に徳島からの参加の指導員として選手?達と我が家に訪ねてくれたのを最後に、約束は実現しないままに音信も途絶えて、そのままあっちに逝ってしまった。
故市川啓二君との一番の思い出は、鯛でもその潮の流れの激しさで、脊椎に瘤が出来ていると言われるほどの鳴門海峡真っただ中、大鳴門橋の第1号橋桁上、二人きりで海流計測、図面に書き込む四国道路公団のアルバイトをした事だった。
早朝、海の凪(な)いだ時間に小舟で桁に置き去りにされ、帰りの海が凪ぐ夕方までいる、計測は三時間毎、機雷状の計測器を海中に沈めデータを取る他はする事がない。 暇を持て余した市川君は小中の渦が無数に巻いている時速十数キロ超で流れる鳴門海峡に、ザイルを着けて三メートル上の桁から飛び込んだ。 が、水泳部出身で自慢の泳ぎも、自然の海流には屁の突っ張りほどの抵抗にもならず、桁とつないだ其のザイルは立ちまちピンと張ったまま、全力のクロールにもかかわらず後輩はザイルにつながれた哀れな丸太と化した。この時、自然に丸腰では絶対勝てない事を悟った。
さて、反戦山小屋と化した山小屋での夜、明日の早立ちのため、腕時計の目覚ましを四時すぎにセットし、午後七時には床についていた。 ピッピピ…となる目覚ましに薄暗闇の中、家人を起こし、準備をせいと合図し階下のトイレに立った。普通なら早立ちの人が一人や二人はいるのに玄関付近に全然気配がない。怪訝に思って小屋玄関の時計を見るとはなしに見たら午前十二時十分くらい前だった。一瞬寝ぼけているのかと思い、もう一度よく時計を見た。やはり十二時前だった。其の途端はっとした。市川啓二君他がこの小屋の斜め前で遭難、雪崩で埋まった時間が元旦まぢかの午後十一時半から午前零時頃だった事を思い出し、きっとそれを知らせたんだろうと思い、「わかってる、知ってる。成仏して下さい」とその場であらためて手を合わせた。 これを書いている時に、日本のベテラン名山岳ガイドがダウラギリで行方不明のニュースが流れた。あらためてダウラギリで死なずに、槍平で死んでしまった後輩の不条理を思った。
合掌。
*チムニー (Chimney) …本来は煙突のこと。 登山用語で、人が全身を入れられる程度の幅をもち上下方向に走る岩壁上の割れ目のこと →2007年の今日のたん譚 →2009年の今日のたん譚
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