久しぶりに長いメールを書いた友達から久しぶりに長い返信があった。絶対つっこまれる、というか「そういう甘いとこから早く卒業しろよ」、と怒られると思って書いた箇所--要するに愚痴--に、意外にも共感して頂く。(最近「甘えるといつか怒られる」、と考え過ぎてたのかしら。でも結局怒らない、優しい人の我がままの限界に挑戦する自分に心底呆れてる。)驚いた、というか少し嬉しかった、というかその両方が混じって切なくなった。ほんの1年か2年前、ループし続けながら「だめだだめだ私」、とこの人に向けて書いていたこと、「振られました」、とかいう世界の終わりみたいに思える手紙をもらっていたこと、そういう学生っぽさを少し思い出した。
社会人は社会人で、それなりに不安を抱えていて、もう少しで声に出して「学生時代に戻りたい」だとか言いそうになるのを飲み込んでいるのかもしれない。酒飲んだ時にたまにぽろっと、口をついて弱音が出てしまうような生活をしているのかもしれないなあと思ったら少し今の、私の状況が肯定できる気もした。もう、私も不安だからお互い不安で大丈夫だよ、私だって駄目だもの、だからお互い駄目で、みんなそんな感じだから安心でしょという傷のなめあいは出来ない。それだけは分かる。
ようやく読了した『カルチュラルスタディーズ』(ちくま新書)に興味深いことが書いてあった。著者は最後の章で、いわゆるカルチュラルスタディーズの考え方を日常生活の局面で考えていくには「そのへんのストリートにたむろしたり、クラブで踊りまくっている若者」つまり「近い他者」(大学生やフリーター)に届ける必要があると説いている。そしてその際に起こる問題点についても指摘している。
〜しかし同時に、正しい批判や分析や反省の言葉が、日常生活のある局面である人々に対して一種の「恫喝」や「威し」になってしまうような文脈がある。つまり、植民地主義、帝国主義、グローバル資本主義・・・・・・などの過去と現在の暴力的かつ操作的な現実を協調すればするほど、あるいはここではないどこかの「受苦者」のおかれた現実の悲惨さに焦点を当てればそうするほど、聞き手のほうはむしろ引いてしまう、というジレンマがある。(言葉が相手を黙らせるとき、たとえそれが正しい内容であっても、それは一種の暴力として機能している)これは大学で教えたり、酒場で喋っていて、ごく普通に経験される逆説である。〜
(筆者はこの後に解決の方向性を提示しているが、それは私が説明するには難しいので端折ります)
典型的な「そのへんにいる大学生」である私は単純に、ああ、この人分かってるよと感動したのだ。相手の言っていることが分からなくて、というか実感できずに結局黙ってしまった経験が私には何度もある。そして私がいつも知りたいと思っていた(でも聞けなくて黙ってしまった)のは、植民地主義、帝国主義、グローバル資本主義、あるいは周縁といわれる地域の人々に興味を持つ人たちは、どのようにそれらの問題を自分の日常生活に引き寄せているのか、また日常生活のどんな瞬間に問題意識が発生したのかという点だった。先日レディオヘッドの音楽を聴いたときにも感じたことだ。これはあまりにも稚拙で踏み込んでいなくて、勉強不足の人がする発言であることは良く分かる。でも教えてほしいし知りたい。
恥ずかしかったけれど、先日初めてこの疑問を友達に直接投げかけてみた。真面目に答えてくれたのが嬉しかったしバカにせずにていねいに考えてくれた。答えは出なかったけれど。勉強はさらに続く。
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