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2003年06月13日(金)

うちに帰ったら杏仁豆腐が食べられてた日。 - 松田龍平は髪の毛が伸びてかっこよくなったなー。ベックの若い頃の写真とかもう、犯罪的「美」だわあ。オフィシャルサイトのベックギャラリーが、たまりませんな、うきょ。キアヌキアヌ、キアヌ様。でも『スピード』の時が一番ちゅきよ、痩せてたから。

こんな感じで煩悩だらけ。左肩は重いしオオアワガエリの花粉のせいで鼻水は出るし、病院行ったら「果物アレルギーもあるね」と新しい発見をされてしまう始末で、ちょっと生きる活力っちゅうの?いくよいくよ飛ばすよぎゃいんぎょいんて、そんな勢いが足りない毎日の私です。ここのところの面接と筆記で、少し疲れました。なんて嘘、駒が無くなる悪夢よりはずっとましです。神様ごめんなさい。

気合いが全く入らないので、上半期の極私的ブックレビューでもします。あくまで今の気分に即して。

<生き方について考える3冊>
都築響一『TOKYO STYLE』(ちくま文庫)
WEBアクロス編集室/パルコ編『トーキョーリアルライフ』(実業之日本社)
中原昌也『エーガ界に捧ぐ』(扶桑社)

就職活動をしていると、当然辛くなる。まして私のように、大学まで「社会の体裁」なるものからはみださずに来た人間にとって、いくら受けても落ち続け、終わりが何処だか見えない地獄というのはなかなかこたえるものだ。しかし、やはり助けてくれたのはやはり本だったのであり、それは自己啓発や、啓蒙書の棚ではないところから見つかった。
東京の小さなアパート群に暮らす、「普通の人」の生活は端から眺めたら、掛け値なしに幸せそうだった。その「幸せそう」は決してお金持ちだとか、いわゆるクリエイティヴな職業についているからだとか、そういうところから来ているものではなく、今日ラーメン食ってさ、それがもうめっちゃうめえんだよな、という種類の「幸せそう」だった。
ここで山口瞳を引用しよう。「人生は短い。あっという間に過ぎてゆく。しかし、いま目の前にいる電車にどうしても乗らなければならないというほど短くはない」(『少年達よ、未来は』)。

*中原氏の著作を入れたのは、彼の生き方が私の理想のひとつだから。原稿をなぞなぞで埋めても次の仕事が来る真の才能を見よ。



<浅田彰を知らなくて心の底からバカにされた私と、同レヴェルの教養の人にすすめる、賢いふりができそうな3冊(全て新書なのが痛い)>
石原千秋『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)
上野俊哉/毛利嘉孝『カルチュラルスタディーズ入門』(ちくま新書)

教養のない人というのは、ついつい話の中で下の地位に追いやられがちだ。権力を握るには偉そうに、あくまで知ってる「ふり」をして話すことが大切。そんなわけで私は最近手始めに新書を読んでいる。ついでに『教養主義!』(フリースタイル)、坪内祐三編『文藝春秋八十年傑作選』(文藝春秋)小阪修平『そうだったのか現代思想』(講談社+α文庫)なども買ったので偉そうにする準備は着々と整いつつある。ああ、それにしてもいつからこんなに阿呆になったのかしらねえ。昔は神童って呼ばれてたのよ。ってそれも親が「ふり」してただけ?!


<貧乏について考える3冊>
町田康『へらへらぼっちゃん』(講談社文庫)
川上卓也『貧乏精髄』(WAVE出版)
内田百聞『大貧帳 内田百聞集成5』(ちくま文庫)

アルバイトの帰り、上野駅を通る度に考えた。ここに寝ている人たちと、私との間に、一体どれほどの違いがあるのだろうかと。世界の底に横たわるのは、結局食うか食われるか、生きるか死ぬかという、逃れられない命題である。
「俺はもう、金がない金がないっていいながら生きるのが辛いよ」と弱音を吐く借金まみれの飲んだくれ現場を見たことがある。あははは。失礼よ、と思いながらもついつい爆笑してしまった。貧乏には、そういう力がある。ブスやデブ、リストカットやドメスティックヴァイオレンス、うつ、引きこもり・・・その他のあらゆる社会問題とはどこか違った、軽やかさと明るい情けなさを漂わせる。本人たちは、いつも大真面目なところがさらにおかしい。いくらなんでもたんぽぽの天ぷら食べちゃ駄目だよ、町田さん。



<手紙、メール、テーブルトークRPG・・・形は変われど対話することの醍醐味を教えてくれる3冊>
三島由紀夫『レター教室』(不明)
村上春樹編集長『少年カフカ』(新潮社)
大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社新書)

人と人がきちんと何かを伝えあうのは、非常に面白いことである。とはいえ、「きちんと」というのがなかなか難しく、きちんと向き合わなくても肌を重ね合わせられるくらいの環境が、今の私(たち)のまわりにはある気がする。誰かと恋人として付き合ってみても、その人のことはおそらくほとんど分かっていない。少なくとも私の実感はそうだ。私のことを、本気で分かろうとしてくれる人だって、どれだけいるのか知らない。それでも、何故だろう、気付くと誰かに向かって一生懸命メールの文面を考えたり、手紙を書いては破ったり、分かってもらおうと必死で面接に臨んでいる自分がいる。伝えあう行為そのものが、喜びなのだ。
そうしたコミュニケーションの欲求は時に、「物語」さえ生み出すらしい。「ケミストリー」じゃないけれど、孤独から生まれた虚構とはまた違った可能性が、その先に見えてこないだろうか。



<泣けるから、読んでおくべき3冊>
舞城王太郎『土か煙か食い物』(講談社ノベルズ)
高野文子『黄色い本』(講談社)
町田康『けものがれ、俺らの猿と』(『屈辱ポンチ』収録、文春文庫)

つべこべ言わず読め。特に三島賞作家舞城王太郎は、友人が(三島賞受賞以前に、ね。ここ重要)掘り出してくれた逸材。全作品通してはずれなし。「だってノベルズでしょー。メフィスト賞って何ー?」とか言ってるおばかさんは、一生を棒に振りますよ。三冊目、町田康は、笑い過ぎて泣く。涙が出るほど笑える作品を、どうしてもつづきが我慢できず電車内でも読んでしまった私・・・。どうなったかって?聞く前にやってみな。



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