拝啓 王子様
梅雨の候、いかがお過ごしでしょうか。大変御無沙汰してしまいましたね。なんて、しらじらしく書いたけれど本当はもう書くことはしないつもりでした。でも思いきって書きました。
私は元気です。
毎日毎日中途半端に続く雨は憂鬱ですし、空気が灰色にどんよりと湿っぽいのは気持ちが悪いなあと思うけれどこの時期特有の、夏が近づく高揚感は、嫌いではありません。昨日の日記に私はこう記しています。「夕方、夏の香りのする風を網戸ごしに感じながらビートルズをかけた。泣きそうになった。ビールが飲みたいな、君と」。
あなたとビールを飲む夕暮れ時は、どんなにか素敵でしょうね。実際のところ、私はほとんど飲めないのだけれど。ああ、それでもどんなにか、素敵でしょうね。
早速ですが大事件です。高橋源一郎の小説に出会いました。これはまさに何年かに一度の奇跡的「衝撃」です。
読んでいる間中、私はくそったれな自分から浮遊し、文字の造り出すここではないどこかの世界に飛び立ちました。この感じ、とても久しぶりに味わったように思います。村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を初めて読んだ時以来かしら。満員電車も、田舎のあぜ道も、喫茶店の隣に座ったカップルも生き地獄のようなスーツの倦怠感も、飛び下りてやろうかと見上げる高いビルも、すっかりもうひとつの世界に塗り替える言葉の世界。
あなたは『さようなら、ギャングたち』を読んだことがある?これほど素敵なファンタジーが、何故あまり人々の話題にのぼらないのか不思議でなりません。それとも世界の私以外の人は、こんな衝撃当たり前に通過しているものなのかしら。
私は理屈っぽい人です。解説を読んでから小説の本文に取りかかるような性根の曲がった読者です。しかしこの小説はそんな理屈っぽい説明がほとんど不可能です。言葉で表現する前に、体がふるえ出すんですもの。説明できないのにものすごく好きになるものって存在するのね。私は活字が表現出来ない種類の何かを信じたくはないのだけれど。というか、余計なことを書いて台なしにするのが恐いのです。ぜひ読んでみて、とだけ記しておきます。
近況、といっても今日の、この小説の衝撃ですべてが吹き飛んでしまったので、一日分しか書けません。ママレイド・ラグの新しいミニ・アルバムを買いました。今もかかっています。それからオリーブの最終号と森茉莉『貧乏サヴァラン』も。最終の前までいった面接は、おそらく落ちてしまいました。お友達から、「ホルモンからは逃れられない」と書かれたはがきで手紙が届きました。アフタヌーンティールームで、チェリーとオレンジののったチョコレートケーキを食べながら、この文章を書いています。
あなたが今何処で何をしているかに、私はあまり興味が持てません。おしゃれカフェでお茶していようとコンビニ弁当を食べていようと、床屋さんで坊主にされていようとカリスマ美容師にうなじをなでられていようと、たったひとり河岸で涙を拭いていようと女の人とセックスしていようと、どうだっていいのです。私はどんな瞬間であれ、その時にあなたが何を感じているのかにとても興味があります。それだけです。だって、現実的な出来事を突き止めて一体何になるって言うの?などといいつつ心の動きよりも事実ばかりを並べてしまった自分の手紙を少し反省しています。
あなたの小説を、また読んでみたいと思います。きっと私好みのはずよ、ふふ、高橋氏ほどかはわからないけれどね。
長くなりました。なんだか続きが書きたくなるかもしれない予感がします。
かしこ
れいこ
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