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2003年06月26日(木)

こんなレトリックだらけの文章を、別に何の恥もなく吐き出してるわけじゃあないんだよ。練習の恥は書き捨て - 新宿。
紀伊国屋書店をぶらぶらしていたら「どうも、河○書房です」と若々しい営業マンを見かけたので「これこれ、そんなに書店さんにぺこぺこしてる暇があったら、河○文庫の高橋源一郎の本が欠品してるのを確認したまえ」と言いたかったけどそれは販売部のお仕事のような気がしたのでやめた。

無印良品でタンクトップをバイ貝。てへ、ごめん。これはまんま町蔵先生のぱくりです。買う、は「バイ貝」、見る、は「ミルクカウブルース」だよ。この言語感覚、少しでいいから分けて紅(恥ずかしい)。

町田康がでているので数年ぶりにZipperを購入。何が驚いたかと言えば最近あれはなんだ!?と騒いだ「シャカラビッツ」「175R」「竹内めぐみ」がすべて取り上げられていたこと。いやいや、恐れ入ります。というかこの雑誌、他と比べてもやはり群を抜いて面白いです。買うファッション誌がどんどん潰れちゃうから、もう最後にはここにすがろ、と決めたよ。また私が文化屋雑貨店の苺ゴムで三つ編みをいわいてたり6%ドキドキのロケットリングしてても突っ込まないでくれ(ますます赤面)。





一人で映画を見るようになったのは最近のことである。隣にいるカップルの会話を盗み聞きしては「くっだらないこと話してるのねえ」とにやにやしたり、待ち時間に気難しく読書をしたり、と思ったら今度は本の世界に引き込まれてなかなか戻ってくるのが難しくなって慌てたりする。自分のことを「暗いです」と言えるようになってから、色々なことがとても楽しくなった。一人で歩く町の端々の発見や、ふとした日常の「決まりごと」(本屋に行ってずうっと棚を眺めているとか、カフェでいつもより高いケーキを頼むとか)があれば、「生きてる実感」?とか「あたしである証」?とか別に欲しいとも思わない。

と、虚勢を張るのは嘘でも何でもないのだが、それでも私は--誰もが--知っている。

生きることは、なんてままならないんだろう。

『めぐりあう時間たち』(オフィシャルサイト→go!)は、ニコールキッドマンのアカデミー賞主演女優賞だけでは語り得ない、素晴らしい作品だった。

「私はパーティーを開くことだけを考えて生きてるような、くだらない人間だって彼にいわれてるような気がしたの」。「死ぬことではなく生きることの中にしか、安らぎは見つけられないのよ」。三人のヒロインは作品の中でしばしば涙を流す。それは生きるのをひたすら噛み締めるような、まるであなたが眠る前にベッドの中で流すような静かな涙である。生きることとは、こうして静かに頬を伝う涙に、とてもよく似ている、そう思った。

映画の中で繰り返し描かれるのは、生きることと死ぬことという、この世の根底にあるテーマである。しかし、それは決して特別な世界で繰り広げられるものではなく、私たちの日常にしっかりと潜んでいる。当たり前のようで忘れがちな事実を、この映画は嫌というほど目の前に突き付けてくる。そして同時に、「生」を選び取ることの希望と苦しみを教えてくれる。

二時間半後、帰りの電車に揺られながら明朝乗る電車の時間について考えた。冷蔵庫の杏仁豆腐は切れてないかな、と心配もした。それから少し、素敵な恋とか将来の自分、人生について思い描いてみた。そうやって私は、これからも日々を生きてゆく、死ぬまで。私は思う、それはなんて退屈で馬鹿馬鹿しく、絶望的で間延びし、そして最高に素敵なことであろうかと。


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