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2005年05月17日(火) 王子様への手紙

新緑が美しい季節になりました。
たまに降る雨で気温が下がる時のために、
私の部屋にはまだこたつが出しっぱなしです。

お元気ですか。

またすぐに忙しくなりそうですが、
とりあえずひとつ、仕事が一段落したので
書いています。

6月前半は入稿のラッシュが控えているので、
せいぜい今のうちに(といっても数日間かもしれないけれど)
会社帰りに本屋さんに寄ったりしてのんびりしたいなと思っています。

あなたに向けて書きたいことを貯めている間に、
また新しい本の感想が
自分の中から出てきたりして、
なかなか全部お伝えするのが難しそう。

でも、書きたいことがたくさんあるってきっといいことですよね。

今日は、ゴールデンウイークに行った
世田谷美術館のことを聞いてほしくて筆をとりました。

『ウナセラ・ディ・トーキョー」という写真展を見てきた。
7人の写真家が
東京の1935年から1992年までを撮った作品を
展示したものです。

初めて、桑原甲子雄さんの写真を生で見ました。
「午後の微笑」という作品群がとてもよかった。

それから、アラーキーと桑原両氏が出展しているということで、
金井美恵子の小説『午後の微笑』に出てくる
「ラヴ・ユー・トーキョー」という写真展(どうやら同じ世田谷美術館で開かれたらしい)
が頭に浮かびました。
そのくだりに、大好きな文章があるので引用します。
(少し長い上、以前も書いたことがあるかもしれないけれど、許してください)



 荒木の写真は、私たちの東京や性やとりわけ死に対する「イメージ」を脅かしたりはしない。「イメージ」を脅かし、それを揺るがせるはずだと素直に信じて発表されたことによって、荒木の写真は、見る者の「イメージ」のなかに、ほどよいショックを与えつつおさまり、平板化される。あらゆる価値の平板化こそが現代の特質だという近代批判の価値観によって、荒木は自らをアラーキーに平板化するのである。観光客が旅先で撮る「写真」が、パック・ツアーの「経験」をますます平板化する、という、ブーアスティンの『幻影(イメージ)の時代』を反語的映像として撮ったはずの荒木が、「イメージ」の持つ、そう単純には出来ていない両義性を超えることが出来ないでいる時―「トーキョー」も「東京」も、「イメージ」などにはおさまりきれないし、「中年女」も「風俗女」も「死顔」も「性交」も、たかが写真のイメージなどにおさまりきれるものではない、と当の「イメージ」が主張する―指と視線の倫理をカメラという装置に賭した桑原甲子雄の写真が、見る者の生きた時間に向って、ここでしかない瞬間と空間に生きている者たちの存在の力を主張する。わたしたちは写真なんかに撮られても平板化されはしないのだ、と。

 桑原甲子雄が最も新しい写真展(1992年)に「午後の微笑」というタイトルを付けたのは、フレームに切り取られる写真などで決して平板化されることのない時間と人生のダイナミズムにあふれて、現にそこにひろがる世界に対する―それが東京であれトーキョーであれ―指と視線の倫理による確認の微笑なのだ。そして、私たちは桑原の微笑を共有することによって、この世界で生きようと思うだろう。



会社員として毎日働いていると、「存在の力」なんて忘れちゃいますよね。
写真展に行ってよかった。

足を運ばなかったら分からなかったことがたくさんあったから。
『軽いめまい』のことも忘れていたし、
世田谷美術館が「砧(きぬた)公園」の中にあることも知らなかった。
中にあるレストランが
コース料理ばかりで女の子一人で
入っちゃいけない店だっているうのも気が付かなかったもの。



最近、仕事ってなんだろうと思います。
自分のプライドのためにやっているのかな、とか。
今の仕事は楽しいけれど、
読者にきちんと何かを伝えられているのか不安です。

昨日、『ku:nel』を買って、
ほくほくしながら満員の山手線の終電で読みました。
私もこんな風に、本当に本当に困ったり、辛くなっているときに
人を助けられるようなもの作れたらいいなあと思いました。



あなたの近況はどうですか?

私は多分、今、低迷期なのだと思います。
そのうちよくなるでしょう。

それではまた。

かしこ




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