小学校1年生から、書道教室に通い始めた。毎週月曜日は「習字の日」だった。本町4丁目の先生の家まで、田んぼの中を自転車で通った。
どんどん字がうまくなった。小学校2年生のとき、初めて書き初め展で金賞を取り、3年生では作品がクラス代表になった。4年生から6年生までは、毎年県展に出品された。5年生、6年生は県展で「特選」に選ばれた。
練習が好きだった。練習すればしただけ、うまくなるのが楽しかった。書き初め展の前は、一日100枚以上書いた。買っても買っても紙が足りなくなるので、冬の夕方、父に車を飛ばしてもらってよく大きい文房具屋さんに行った。100枚、200枚単位で売ってくれる店が、家の近所にはなかったから。
自分の書いたものがどう評価されるかには、あまり興味がなかった。ただ、手本を見て繰り返すことが気持ちよかった。「気持ちよかった」というほど何かを考えていたとも思えない。手本を見て繰り返すことを、ただ、していた。続けた。
中学になっても高校になっても、毎週月曜日には赤い「お習字セット」を下げて自転車を走らせた。部活の後に練習に行くのは疲れて、面倒くさかった。だからたまにさぼった。でも、辞めなかった。老後は書道の先生になるのだと、漠然と思っていた。
書道で大切なのは、「線の厳しさ」と言われる。初めはぼたっと、たるんでいた線が、書き込むうちに鋭くなる。線は、どんな時でも鋭くなければいけない。筆遣いは、迷いなく、速くなければならない。
「迷いなく、速く」は意外に難しい。手本に忠実な、基本の文字の形を覚えていなければ、筆は速く動かすことができない。
線がある程度鋭くなってから、その人の個性が出始める。先生は私の線を「れいこさんの線は品があるのよ」と褒めてくれた。「鋭いんだけど、柔らかいのね。ふわっとしてるのね。ただ厳しいだけじゃなくて」。
高校生になったくらいの頃、1万円以上する羊毛の筆を買った。今まで使っていた人工毛のものとは違い、柔らかく、根本までふにゃふにゃ曲がるので非常に書きづらかった。しかし、スピードを持って筆を走らせると、思いがけない枯れ(墨がかすれること)やにじみを生み出してくれる。美しい「枯れ」は、100枚、200枚、1000枚書いた後、偶然に生まれる。ようやく生まれたその一枚を大切に、展覧会に出す。時には1000枚書いても出ないこともある。そういう時は、1100枚、1200枚、とまた書き続ける。書けば書くほどいいものができる日もあれば、迷走して行き詰まってしまう日もあった。
教室には、ライバルがいた。スズキくんと言った。私と同じ、小学校1年生から書道を始めた男の子だ。同い年の子で、高校に入っても教室を辞めず、「師範」の目前まで行ったのは彼と私だけだった。彼は、繊細で細い線を書いた。創作が得意だった。
私の通っていた教室では、正月の展覧会があった。検定とは離れて、自分の好きな文字を、好きなように、遊び心で書く。彼は、そうした場面での作品が群を抜いていた。
「夢」と一文字、線は細く、決して主張しないのに、人の目を引く。余白を大きく取った紙の真ん中に字面は上品に、しかし伸びやかな個性を主張しておさまっていた。
制服にピーコートを着た高校生の私は、展覧会を訪れ、嫉妬を覚えた。スズキ君の作品よりも大きな文字で、ぽってり女性的な丸みを帯びて書かれた私の「新春迎淑景」という臨書(古典の一部を、そのまま手本として真似て書くこと、書かれた作品)は、「上手な字ね」という感想以上を抱かない、平凡な美しさで額に納まっていた。負けたと思った。そして、書道があるレベルを超えてからは芸術である以上、私はこの人に勝てない、とその時の私は悟ったのである。
推測が、正しかったのかは分からない。今、スズキくんが師範を取っているか、書道教室を続けているか、私は後のことを何も知らない。
高校3年生の9月、「受験が忙しいから」と言って私は書道教室を辞めた。「また戻ってきます」と先生には言ったが、きっとこれが最後だと、自分では分かっていた。当時は思春期だったので、親には「どうせ長く生きたって仕方がないんだから、老後に習字の先生をやるなんていう希望はナンセンスだよ」と格好をつけた。
ほとんどパソコンの文字で人とコミュニケーションを取る日々の中で、たまに「字が上手だね」と褒められた時、私はふっと書道教室のことを思い出す。真冬の廊下で1000枚書いたときの、墨の匂いが、甦る。「自分が一番になれないなら辞めるしかない」と言い訳をして、打ち捨ててきた沢山の過去のひとつを、惜しそうに眺める今の無能な私がいる。
|