橋本裕の日記
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2001年03月05日(月) ペルシャ戦争と民主主義

 ペルシャ大王クレルクセスは前480年、空前の規模の大遠征軍を率いてギリシアに侵攻した。ペルシア軍の兵力は、陸軍約30万人、そして海軍は三段櫂船(上中下3段にならんだ漕ぎ手が櫂を使って動かす古代の軍船)約1200隻と考えられている。

 テルモピレーの戦いでスパルタの精鋭部隊を破ったペルシャ軍は、ほとんど無抵を受けることなく南下し、9月にアテネのアクロポリスを占領した。アテネのほとんどの市民はすでに抵抗することなく、アテネの南にあるサラミス島へ逃れていた。

 このときサラミス島のギリシアの三段櫂船の総数は約310隻。そこへ500隻のペルシアの主力艦隊が押し寄せてきた。こうして史上有名なサラミスの海戦(前480年9月下旬)が始まった。しかしギリシア海軍は地の利と追い風を利用して、海の上では終始有利に戦いを進め、その機動力によってペルシア海軍をほぼ壊滅させることに成功した。

 このサラミスの海戦はペルシア戦争の行方を決定づけ、その後のギリシアの歴史を変えていくことになった。特に三段櫂船の漕ぎ手としてアテネの無産市民が活躍したことは、後のアテネの民主主義の発達に重大な影響をおよぼすことになった。

 三段櫂船の漕ぎ手は 1隻あたり170〜200名。そうすると、アテネの軍船200隻には漕ぎ手だけでも3万 4千人以上が必要になる。これは当時のアテネの全市民の人数に匹敵する。参政権を与えられていなかった約2万人もの無産市民がこの戦いに参加して、活躍したことは大きかった。

 財産がないために、武器・武具を買うことができなかった無産市民は、これまで重要な戦力にはなれなかった。ところが、サラミスの戦いで、彼らはギリシャの命運を賭けた戦いに参加し、ギリシャを勝利に導くために命を賭けて戦った。

 こうした実績を背景にして、やがて彼らは自らの参政権を要求し、それが認められることになる。そしてペリクレスの改革によって、政治の舞台でこれまで実権をにぎっていた貴族たちが構成する元老院から、無産市民をも含めた市民集会へと権力の中心が移っていった。

 成年男子の市民であれば誰でも市民集会に出席し、自由に発言できるようになった。市民集会は年間40日ほど開催されたと思われるが、出席者には手当が出た。これによって、無産市民の政治参加が促され、彼らのペリクレスへの支持は確固不動のものとなった。

 さらに、将軍・財務官などの一部の官職を除いて、一般官職が市民に開放され、抽選で決められた。そしてこれまで官職に報酬はつかなかったが、無産市民までが役人となったため、これにも報酬が支給されるようになった。

 ギリシャは君主制、貴族制(元老院制)、民主制と変遷したが、貴族制から民主制に移行した要因の一つが、ペルシャとの戦争で勝利を収めたことであった。もちそんこうした社会変革に際して、アテネにペリクレスという偉大な民衆派の指導者がいたことは無視できない。しかし、その後の世界の歴史を眺めてみても、民主主義がしばしば戦争の副産物として生み出されることはよくあることである。


橋本裕 |MAILHomePage

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