橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
2001年03月06日(火) |
パルテノン神殿の威光 |
古代アテネの象徴といえば、それはアクロポリスの丘にそびえたつパルテノン神殿だろう。ペルシャ戦争勝利の後、実権を握ったペリクレスは、総監督に友人のフィディアスを起用し、神殿建築にとりかかった。
ペルシア戦争に際して、アテネ市民はアテナ女神に勝利を祈願し、神殿建設を誓った。そして戦勝はもちろんアテナ女神の加護によるものだと考えられたから、神殿の建築にアテネ市民はだれも反対しなかった。それどころか、アテネ全市民は、まるで熱病に取りつかれたように工事に励んだといわれている。
神殿中央には、フィディアス作、高さ10mの黄金と象牙からなるアテナ女神像が据えられた。こうしてアテネの黄金期を象徴する美しい神殿が、前432年、15年の歳月をかけて完成した。このとき、アテネ市民は自分たちが、政治・経済・芸術すべての分野で世界史の頂点に立ったことを疑わなかっただろう。
建設に当たって、工事に参加したアテネ市民は賃金を得ることが出来た。戦争で疲弊したアテネ経済を立て直すために、神殿建設は一種の公共事業として有効だったと思われる。官職者や市民集会の参加者への手当の支給といい、ペリクレスは個人生活では倹約家だったが、国家を運営するにあたっては、ずいぶん思い切ったお金の使い方をした。
ところで、戦争が終わった直後に、どうしてこれだけのお金ができたのだろう。一体どこから、神殿の建築にかかる莫大な費用を捻出したのだろう。実はペリクレスはそれをデロス同盟の軍事資金のなかから流用したようだ。この金はペルシャに備えるために各ポリスが拠出したものであり、決してアテネの独占物ではない。
ペリクレスはその金を、アテネのために使った。しかし、このことによって、彼はアテネの市民を経済的に潤し、自らの政治家としての名声を確立した。そして、彼の名声は、2000年の年月を隔てた現在でも、アクロポリスの丘にそびえたつパルテノン神殿とともに、燦然と輝いている。
|