橋本裕の日記
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アテネは、ペルシャ戦争が終わったあとも、デロス同盟の盟主として、その地位をますます強化した。デロス同盟の加盟国から、貢租金を取り立て、それをアテネのために流用した。ペリクレス時代のアテネは、内政的には民主化が進んだが、外交政策はあいかわらず武力にものをいわせた覇権主義だった。
このアテネに対抗したのが精鋭の陸軍部隊を誇るスパルタである。スパルタは、もとより貴族制の国であり、アテネの民主政治を嫌っていた。アテネが興隆し、その影響が周辺に広まることはスパルタにとって脅威であった。
前431年3月、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟側のテーベ軍がアテネ側のプラタイアに侵入した。これが以後27年間続くペロポネソス戦争のはじまりとなった。この戦争のさなか、前430年に、ペリクレスが戦争で死んだ戦士を追悼する有名な演説をしている。
「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を廃し、多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。
われわれアテナイ人は、質朴な美を好み、軟弱に陥ることのない知を愛する。われわれは、富を行動するための条件と考えるが、けっして富を誇示しない。自分が貧しくとも恥と思わないが、貧しさを克服しようとしないことを恥じる。
われわれは、自分の家計と同じように、国の財政にも意を用い、おのれの職に精励すると同時に、国政の進むべき方向について熟慮するように務める。そして、公私の活動に関心を持たぬ者を、閑暇を愉しむ者とみなさず、そういう人間を無益な輩と考える」(トウーキュディデース『ペロポネソス戦役史』第2巻第4節)
しかし、このあと、ペリクレスのアテネは思いがけない不運に見舞われた。ペストの大流行である。ペストはアテネの外港のピレウスで始まり、アテネに飛び火した。家も人も密集している不衛生な籠城生活をしていたアテネに、このおそろしい疫病は非常な勢いで広まり、2年間で全人口の3分の1が死んでしまった。ペリクレス自身ペストにかかり、前429年に亡くなった。
ペストの流行は前426年まで及び、アテネを疲弊させた。そして、前405年の最後の海戦に敗れたアテネは海上から封鎖され、食料も尽き、翌年の前404年にアテネはついに降伏し、ギリシア全土に惨禍をもたらしたペロポネソス戦争はスパルタの勝利で終わった。
しかし、その後前371年にはテーベがレウクトラの戦いでスパルタを破り、これによってスパルタの覇権も崩れた。以後ギリシアは慢性的な戦争状態に陥り、ギリシア世界全体が衰退していった。
やがて、北方でマケドニアが勃興し、フィリッポス2世(位前359〜前336)が、ギリシアに侵入してきた。アテネとテーベは連合して、前338年にカイロネイアで戦ったが敗れ、ついに全ギリシアはマケドニアの支配下に置かれることとなった。
(注)トウーキュディデースはペリクレスと同時代の歴史家で、アテネの民主制をさして、「外観は民主制、内実は一人が支配する国」と書いている。実際、ペリクレスの死後、アテネは混乱し、衰亡した。しかし、ふたたび貴族制や王制に戻ることはなく、まがりなりにも民主制を維持し続けたことも事実である。
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