橋本裕の日記
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古代国家アテネは奴隷制社会だった。労働は奴隷がすることで、市民のなすべきことではなかった。市民のなすべきことは、政治と哲学である。それから戦争があった。戦争をしないと、奴隷が確保できない。だからギリシャでもローマでも戦士として戦争に赴くことは市民の第一の義務だった。
労働の中には商業もふくまれる。したがって、プラトンの理想的共和国には商業が存在しない。「富の欲望は、われわれの閑暇の時間をすべて奪ってしまい、われわれの個人的所有物でないものに携わることを妨げる。こうした財貨にとりつかれていると、すべての市民の霊魂は、自分の利得にならないものに対して配慮することは、まったくできなくなるであろう」(「国家」)
だから商業もまた共同体外の異人か、奴隷がするのにふさわしい仕事だとみなされた。しかし、そうすると皮肉なことに、商売でお金をしこたま稼いで、市民よりもはるかに豊かな生活をする奴隷も出てくる。たとえば銀行家のパシオンなどがその代表だろう。
フェニキア人の彼は、幼いときにアテネの裕福な銀行家の兄弟に買われ、その奴隷として働いていた。しかしその才能ゆえに、33歳の頃特別に解放されて自由な身分になった。そのあと、非市民の家の女性と結婚した彼は、これまでの経験を生かして自分の銀行を作り、盾を作る工場も経営したりして、やがて巨万の富を蓄えた。
その額は約45タラントン。普通のお金持ちの財産は2タラントンほど、アテネ市民だったソクラテスの全財産はたった5ムナだった。(1タラントン=60ムナ)これだけのお金があれば、200人乗りの三段櫂船を45隻も建造できたという。
実際にパシオンは戦争のたびに何隻もの高価な軍船や1000個もの盾を寄贈した。そしてその功績によって、前376年、パシオンが54歳の頃、ついに彼の息子ともどもアテネの市民権を獲得した。ペリクレスの息子でさえも母親がアテネ市民の娘でないために、なかなか市民権がえられなかったくらいである。奴隷が市民権を得ることはたいへんなことだった。
さて、その後、パシオンの銀行はどうなったか。死ぬ1年前に、彼は彼に長年仕えていた奴隷のフォルミオンを解放し、彼に銀行と盾の制作工場の経営を委ねた。そして、このフォルミオンもまたその晩年には自分の奴隷に銀行経営を譲り、アテネ市民権を賦与されたという。
(注)金属で作られた貨幣ができたのは、前7世紀後半のリュディア王国(小アジア)だという。前6世紀にギリシアにひろまり、それぞれのポリスが独自に通貨を発行しはじめて、両替商がうまれた。彼らが貨幣や貴金属、重要文書の保管、商業取引の仲介業に乗り出し、預かった預金を利子つきで貸すようになり、銀行業(トラペザ)が成立した。記録に残っているもっとも古い銀行家は、パシオンの主人、アルストラトス&アンティステネス兄弟だという。
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