橋本裕の日記
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今年は福沢諭吉没後100年にあたる。諭吉の根本的考え方は「独立自尊」ということだ。これは個人に対してだけではなく、国家にも言える。そこで個人の独立が先か、国家の独立が先かということが問題になるが、諭吉は個人の独立が先だと考えていた。「一身独立して国家独立する」(学問のすすめ)という立場である。
諭吉は国家を契約的なものと見ていた。明治8年に彼は天皇についての「覚書」を書き、その中で、「君主はあたかも珍奇な頭」だと述べて、「天子など幾人あっても構わない。文明のためなら、君主でも共和でもよい」と書いている。
ところが明治15年の「帝室論」で立場を変えた。「一国の帝王は一家の父母のようなものだ」と主張し始める。「帝室は人心収攬の中心となって、国民政治の束縛を緩和し、海陸軍人の精神をコントロールして、その方向を知らしめ、・・・その功徳のきわめて大きくきわめて重いことは数えあげることができないほどである」と書く。
7年間で諭吉の考え方は劇的な変化を見せた。この7年間に起こったことを列記すれば、西南の役、大久保利通の暗殺、参謀本部の天皇直属(統帥権の確立)、国会開設の上願書提出、1890年の国会開設の勅諭など。しかし、こうした国内の動静から彼の「転向」を読みとることはむつかしい。
そこで考えられるのは、中国、朝鮮との関係である。1882年に朝鮮で兵士たちによる反日・反政府反乱「壬午軍乱」が起こった。朝鮮半島を巡り、中国との主導権争いが熾烈になりつつあった。こうしたアジア情勢の緊迫が諭吉に国家戦略面での転向を促したと考えられる。
諭吉はこうしたアジア情勢を、グローバルな視点から考えていた。二度の洋行を経験した彼には西欧列強のアジア侵略の構図が見えていた。これに対抗するために、「富国強兵」をさらに押し進め、強力な国家を早急に立ち上げる必要を感じた。優先すべきは「国家の独立」であり、強力な国家の建設である。そして、国家を統合する精神的支柱として皇室を考えた。
国家が亡びて個人の独立はありえない。諭吉は悲惨な奴隷状態を、列強の植民地になったアジアに見ていた。これらの人々のふがいなさに苛立ち、「韓国、国にして国にあらず」「皆殺しするに造作なきこと」など、過激なまでのアジア蔑視の姿勢を見せるようになった。
しかし、彼が根っからの国家主義者であったと考えるのは誤りである。最晩年の「福翁自伝」の中で、「一国の独立は国民の独立心から湧いて出ることだ。国中をあげての奴隷根性ではとても国がもたない」と述べているし、明治30年の最後の演説の中でも、「議論をやかましくして、一度や二度では承伏しないようにこねくりまわして、そうして進歩の先人となって世の中をデングリ返す工夫をすることが、私の死ぬまでの道楽だ」と言っている。
彼のアジア蔑視も、権力にへつらう奴隷根性にたいする嫌悪感がなさせたものであろう。しかし、彼の言動が狂気の侵略へと傾いていた日本軍国主義を後押しすることになったことは事実だ。列強の植民地支配という困難な状況の中であっても、先覚的な言論人の諭吉には、あくまで個人の独立と自由、尊厳を一貫して主張する英知の人であって欲しかった。
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