橋本裕の日記
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2001年05月13日(日) 色が浜と芭蕉の句

 昨日は妻と愛犬リリオと私で、若狭敦賀の「色が浜」まで、ドライブをした。名神から北陸道に入ったが、真っ青な空にはえて、周囲の山々の新緑が美しかった。一宮の家を出てから、1時間半ほどで敦賀市につき、まずは「ヨーロッパ軒」で昼飯を食べた。

 実を言うと、この日帰り旅行は「ヨーロッパ軒」の「ソースカツ丼」を食べたいという私の希望で始まった。そのついでに、西行や芭蕉も訪れたという景勝の地「色が浜」まで足を伸ばそうということだった。

「ヨーロッパ軒」が東京に開店したのは大正時代で、洋行帰りの主人が日本人の口にあうように工夫して店に出したのが「カツ丼」のはじまりだという。つまり、「ヨーロッパ軒」の「ソースカツ丼」はカツ丼の元祖である。関東大震災で店は灰燼に帰したが、福井出身の主人が故郷に帰ってきて「ヨーロッパ軒」を福井市に再建した。戦後になって、敦賀にも「ヨーロッパ軒」ができた。

 妻にそんな講釈をしながら、腹ごしらえがすんだところで、再び車に乗った。海水浴で昨年来たことがある「気比の松原」の松林の道を通り、西浦海岸沿いの道を走った。30分足らずで「色が浜」についた。妻が学生時代に敦賀に来たとき、「色が浜」に行こうとバスに乗ったが、途中までしか行けなかったという。

 今その海岸にきて、砂浜に寝転がり、しばらく海を眺めた。11歳になる雄犬のリリオがうれしそうに浜辺を駆け回る。人気がほとんどないので、のんびりくつろげた。それから、両側に釣り船旅館が並ぶ鄙びた通りを、芭蕉の句碑がある日蓮宗本隆寺まで歩いた。「奥の細道」の旅で、芭蕉はこの地を訪れ次のように記している。(現代語訳)

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 十六日、空が晴れたので、ますおの子貝を拾おうと、種の浜(色ガ浜)に舟を走らせる。浜までは海上七里ある。天屋なにがしという者が、破籠や小竹筒などをこまごまと気をつかって用意させ、召使を大勢舟に乗せて出かけたが、舟は順風を受けてわずかの間に吹き着いた。浜はわずかに漁師の小家があるだけで、そこにさびれた法花寺(本隆寺)がある。その寺で茶を飲み、酒を暖めなどしていると、この秋の夕暮れが寂しさの極致であると確信した。
 
 寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋
 波の間や小貝にまじる萩の塵
 
 その日のあらましを、等栽に書かせて寺の記念に残した。

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 同行した門人の等栽に書かせて寺の記念に残したという文は今も本隆寺に寺宝として残っている。なお「ますほ」は「赤い」という意味の古語で、「ますほの小貝」は、小豆ほどの大きさの二枚貝で、学名はチドリマスオガイ。西行がやはりこの地を訪れたとき、「汐染むるますほの子貝 ひろふとて 色の浜とは いうにやあらなむ」(山家集)と詠んでいる。

 残念ながら、私たちはこの風流な貝を拾うことは出来なかった。なお、芭蕉がのちに「色が浜」を偲んで詠んだものにつぎの句がある。

   衣着て 小貝拾はむ 色の月

「色の月」がなんともよい。なお、芭蕉がこの地を「奥の細道」の最終ルートとして訪れたのは、元禄2(1689)年8月14日夕刻から8月16日の3日間とされている。今を去る300年以上も前のことである。

 海岸道路の上を鳶が何羽か悠然と飛んでいた。妻が「ヨーロッパ軒」で持ち帰り用に買った「とんカツ」を鳶にやりたいと言い出して、それをちぎって空に放り上げはじめた。鳶に襲われては大変と、私もリリオも車の中に避難。恐る恐る眺めていたが、結局鳶は近くまで来るものの空中で「とんカツ」をキャッチすることはできず、さいわい妻も襲われて怪我をすることはなかった。残念なのは、夕食にも食べようと思っていた名物の「とんカツ」が残り少なくなったことだった。


橋本裕 |MAILHomePage

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