橋本裕の日記
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2001年06月12日(火) 歴史教科書のあり方

 ミシガン州立大学(Michigan State University)大学院で政治学を研究している前田耕さんが、HPの日記帳に話題の『新しい歴史教科書』を評価する立場から、いろいろと書いている。

 たとえば、『新しい歴史教科書』の冒頭の「歴史を学ぶとは」のページには、次のように書いてあるが、これは全くそのとおりだと言う。

「王の巨大墳墓の建設に、多数の人間が強制的にかり出された古代の事実に、現代の善悪の尺度を当てはめることは、歴史を考える立場からはあまり大きな意味がない。歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。」

 それでは従来の日本の歴史教科書はどういうふうに書かれていたのか。前田さんにしたがって、平成元年検定の教育出版の歴史教科書の冒頭「歴史的分野の学習をはじめるにあたって」のページの記述を引いてみよう。

「世界の歴史は、人が人として生きるための、人権の確立へ向かってのあゆみであったということができます。人と人との間の不当な差別をなくし、人々や国々の間の平等を実現することをめざして、歴史の学習をすすめていきましょう。」

 前田さんはこれを読んで、「人類の歴史が一つの方向へ目的を持つかのように進んできたとするのが噴飯」だという。「歴史の学習の目的が差別撤廃とか平等とかであるはずがない」という。さらに、教育出版の最後のページの締めくくりを読むと、

「わが国は、第2次世界大戦を最後に、これまでどの国とも直接に戦争をすることなくあゆんできた。核戦争のおそれはたえないが、戦争の放棄を宣言した日本国憲法と非核三原則を守って、世界の平和と諸国民の平等な発展のために、ささやかな力をだしあうことを誓って、この歴史の教科書をとじることにしよう。」

 この記述にたいして、前田さんは「ささやかな力をだしあう」という言葉に虫酸が走るという。「何で、歴史の学習の最後にみんなで誓いを立てなきゃいかんのだ!? 誓いを立てることが愚かしい以上に、誓いの内容が恐ろしい」と言う。

 前田さん自身もこうした教科書で歴史を学んだ。そして、中学生のときは疑問にも思わなかった。むしろこういう言葉に感動して奮い立ってたかもしれないと言う。しかし、今読み返してみると、どうもおかしい。「既存の歴史教科書は相当に左翼勢力や進歩史観に傾いていたようだ。それが、『新しい歴史教科書』が出てきた背景ではないだろうか」と分析している。

 私は「新しい歴史教科書」をまともに読んではいない。したがって、どう考えたらよいのか、ここで意見をまとめることはできない。拾い読みした感じでは、たしかに「物語」としては読みやすい内容だが、過去の歴史を美化するレトリックが目立ち、リアリズムから遠いのではないかと思った。

 といって、これまでの歴史教科書がいいというわけではない。これまでの「進歩史観」の教科書もまた歴史や社会というものの現実から遠く離れた、鼻持ちならない絵空事だということも、この歳になるとよくわかるのである。


橋本裕 |MAILHomePage

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