橋本裕の日記
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2001年06月18日(月) |
金子みすヾの詩(5) |
みすヾの一生を思うとき、私の目頭は熱くなる。そして西洋の詩人の「悩める貝殻にのみ、真珠はやどる」という月並みな一節を思い浮かべる。彼女はこの世の汚濁の中に花開いた、白い蓮の花ではないかと思ったりする。
ぬかるみ
このうらまちの ぬかるみに、 青いお空が ありました。
とおく、とおく、 うつくしく、 すんだお空が ありました。
このうらまちの ぬかるみは、 深いお空で ありました。
みすヾの父、金子庄之助は彼女が3歳の時に死んでいる。そして2歳下の弟の正祐が叔母(母の妹)の婚家先に養子に遣られる。やがてその叔母も死んで、その後釜にみすヾ母、ミチが入ることになる。みすヾが16歳の時であった。
母が再婚した上村松蔵は下関で手広く書店を経営していた。女学校を卒業したみすヾも下関に出て、上村文英堂書店を手伝うことになる。先に養子に来ていた正祐とは姉弟の血縁関係だったが、松蔵の意向でこのことは正祐に知らされていなかった。
正祐は22歳のとき徴兵検査の書類を見て、自分が養子であることを知ったが、それでもまだ自分が誰の子か知らされずに、みすヾのことを姉だとは知らなかった。そして、みすヾと一つ屋根の下で暮らすうちに、彼女への思慕を募らせていく。正祐の夢はいずれ東京に出て作曲家になることだった。そして、みすヾの童謡に曲をつけて発表することを夢見ていた。
みすヾ自身も童謡詩を作り始めた自分の芸術的才能の最大の理解者であった正祐に、精神的同志愛のようなものを感じていた。こうした中で、みすヾの結婚話が持ち上がった。相手は店の番頭格の宮本という男だった。
松蔵はいずれ店は正祐に譲るものの、その間のつなぎとして、しばらくこの男に店を任せようと思っていた。そのための政略結婚であり、またみすヾと正祐の仲を引き裂くための意図もかくされていた。
この結婚をみすヾは望んでいなかった。相手の男はおよそ文学には縁のない、そして使用人の間でも評判の悪い陰ひなたのある、人格的にも尊敬の出来る相手ではなかった。しかし、家のため、正祐のためにと、母や養父から頼まれてむげにも断ることは出来ない。すでに23歳になっていた彼女は、当時とすればもう適齢期をはずれかかっていた。
正祐はこの結婚に大反対だった。みすヾを前にして、「父やお店の犠牲になって結婚することはない。好きな人がいるなら、その人と結婚すればよい」と涙ながらに訴えた。
これに対するみすヾの答えは、「仕方がないの」というものだった。さらなる正祐の追求に、「すきな人はいるのよ。その人は、黒い着物を着て、長い鎌を持った人なの」と答えた。そして、「テルちゃんと僕は姉弟ではないのかい」という正祐のせっぱつまった問いに、黙ってうなづいたという。
正祐はみすヾと別れてから、みすヾのいう「黒い着物を着て、長い鎌を持った人」が西洋の死に神だということに気付いた。そして、日記にこんなことを記した。
「テルちゃんの不可思議な心境には全くまいってしまった。手の届かぬほどの特異な境地で、あまりにいたましく、あまりに病的であるが、しかし、それと知りつつ、やっぱり手を束ねて見ていねばならぬほど特殊な個性の持ち主であることをいよいよ痛感した」(大正15年2月2日の日記)
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