橋本裕の日記
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童謡詩人の矢崎節夫さんが、「みすゞコスモス」という本のなかで、金子みすゞの「花のたましい」という詩を解説しながら、1995年1月17日の阪神・淡路大震災のときのエピソードを紹介している。
テレビのニュースキャスターが、避難している人々に、「何が今一番欲しいですか」と尋ねたところ、大人たちが口々に「水がほしい」「食べ物がほしい」「家がほしい」と言う中に、小学生がぽつんと「友達のいのち」と答えたそうである。
何よりも大切ないのち。しかし、それは一旦失われたら、もうふたたび帰ってはこない。もう二度と、彼の声を聞くこともできなければ、もう二度と彼の笑顔を見ることも、喧嘩をして仲直りをすることもできない。
死んだ後、人はどこへ行くのだろうか。いや人ばかりではない。牛や犬や猫や魚たち、あんなに美しく咲き誇り、私たちを楽しませてくれた花々たちのいのちはどこに行くのだろう。
花のたましい
散ったお花のたましいは、 み仏さまの花ぞのに、 ひとつ残らず生まれるの。
だって、お花はやさしくて、 おてんとさまが呼ぶときに、 ぱっとひらいて、ほほえんで、 蝶々にあまい蜜をやり、 人にゃ匂いをみなくれて、
風がおいでとよぶときに、 やはりすなおについてゆき、
なきがらさえも、ままごとの 御飯になってくれるから。
矢崎さんは同じ本の中で、「私はこすもすの花が大好きですが、数ある花の中でどうしてこすもすが好きなのかというと、きっと私をやっている元素、またはDNAのなかに、昔こすもすだった記憶があるからだと思います」と書いている。
親鸞も「歎異抄」の中で、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と愛弟子の唯円に語っている。また、道元は他の生き物を、「他己」と呼んでいるが、これも他者ももう一人の自己だという認識に違いない。
かんがえてみれば、私たちはその昔、だれしも魚だった。そして蛇やカエルやトカゲ、兎やネズミのような時代を経て、現在の人間に進化してきたのである。私たちのDNAのなかには、当然それらの生物だったときの痕跡は残っている。
さらに、私たちの肉体を作っている物質は常に新陳代謝をしていて、他のものと入れ替わっている。私の排出した二酸化炭素は数分後には隣の人の肺を通って、彼の体の一部になっている。また私の体にも、昨日まで海で泳いでいた魚たちの体にあった元素が入っているだろう。
私は「輪廻転生」の俗説を信じていないが、それでも、こうした現実世界のありさまそのものが「輪廻転生」ではないかと言われれば、この美しい物語に思わず同意したい気持になる。
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