橋本裕の日記
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2007年10月23日(火) |
「虚無」を生きる作家 |
一昨日の日曜日に、妻と金華山に上った。そのあと、自転車で近くの市立図書館に行った。そこでたままた車谷長吉さんの「赤目四十八滝心中未遂」を見つけた。かねがね読みたいと思っていた小説なので、迷わず借りた。
読み始めると、ぐいぐい引き込まれた。力のある文章である。たとえば、冒頭ちかくにこんな描写がある。まずはこれに瞠目した。
<ある日、こんなことがあった。百貨店で私の求めた鋏を包んでくれた、目の前にいる女を、突然殺害したいという欲望に囚われた。見た目には美しい、併しどこか顔色の悪い女だった。「どうかなさいましたか。」と問い掛けられて、往生した。それはその女の包み方がぞんざいだったとか、手渡しの仕方が悪かったとかいうようなことではない。その女からじかに伝わって来る、何かきわ立ってうすら寒い感じが、私の隠された苦痛を呼び醒まし、その女もろとも私自身をいきなり奈落へ突き落としたい欲情を覚えたのだ。不条理な狂気の欲情である。私は私の中の物の怪を恐れた。併しいったん私の心に立ち迷い始めたこの生々しい欲情は、も早いかにすることもできなかった>
じつは私も若い頃、これと似た感情を体験している。私もまた、「私の中の物の怪を恐れ」て生活していた時期があった。いや、いまでも「不条理な狂気の欲情」に襲われそうになる。それだけにこの小説の主人公の運命は他人事とは思えない。
主人公の男は東京の有名な私立大学を卒業している。しかし、サラリーマン生活は破綻し、落剥して故郷へ帰るものの、そこでも人生の敗残者として受け入れられず、料亭の下足番をはじめ、下積みの様々な仕事を転転とする。そして心が次第にすさんでいく。いや、もともとこの男は心のなかに大きな虚無を抱えて生きていた。その虚無が、彼に世捨て人の人生を余儀なくさせている。
小説に描かれた主人公の下積み生活は車谷長吉さんの若い頃の経歴にかなり重なっている。彼はこうした下積み生活を長年経験したあと、49歳ではじめて妻を娶り、それから、その独特の経験を活かして文壇にデビューした。しかし、51歳のとき強迫神経症に襲われ、精神科に入院したりしている。
脅迫神経症の発作がどれほど苦しいものか、私も高校時代と大学時代に経験しているのでよくわかる。車谷さんの場合は、靴やスリッパや下駄が頭上の空間を漂流して飛びかい、彼はそれをはたき落すべく家のなかを走り回ったのだという。
その苦しい発作のなかで後ろを見ると、彼の妻が同じように後をついて走りまわっている。車谷さんの狂気を否定するのではなく、その幻覚が生み出した架空の怪物たちと、一緒に戦ってくれている。その姿をみて、車谷さんは「よくできた女房をもらった」と涙したそうだ。
こうした経歴を持つ作家だけに、文章はごつごつとして陰影が深く魅力的である。彼は若い頃から「世捨て人」に憧れていて、小説家になったのも小説家は世捨て人だと考えたからだそうだ。虚無の嵐はいまだに彼のなかで吹き募っているのだろう。それが彼の造形する人物たちに、独特の熱気と生命力をあたえている。
(今日の一首)
人はみないつか死に行く風ふけば 老いも若きもかげろうのごと
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