橋本裕の日記
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宗教学者の山折哲雄さんが、何かの本で、「幸福に生きる3つの条件」をあげていた。第一に大切なことは、「他人と比較しないこと」だそうである。
私たちは地位や富をもとめてあくせくしている。それは「他人と比較する心」に支配されているからだ。この心を捨てれば、もっと自分本位に、自然に生きることができる。
これはよくいわれることだからわかる。幸福になる筆頭に上げられた理由もわかる。そして、2番目はなんだったか忘れたが、3番目が面白かった。それは「ひとりで歩く」ことだそうだ。
「他人と比較しない」というのは、なかなか凡人にできることではない。しかし、「ひとりで歩く」ことは誰にでもできる。今日からでもできる。お金もいらない。これで幸せになれるのなら、こんなにありがたいことはない。
ところが山折さんは、「ひとりで歩く」ことには人を幸せにする大いなる功徳があるのだという。その理由もいろいろとあげていた。いまつまびらかには思い出せないが、たしかにひとりで歩いていると、心の鬱屈が晴れてきて、しあわせな気分になることは事実だ。
私も最初は高血圧対策に運動がよいといわれて歩き始めた。億劫なことも多かったが、最近では毎日の散歩が楽しみである。毎朝散歩をすることで心がリフレッシュされる。たしかに山折さんが言うように、ひとりで歩くことの功徳は大きいように思う。
ここまで書いてきて、山折さんのいう幸福への2番目の条件を思い出した。それはたしか「人を騙すより、騙されるのをよしとする」ということだった。人はだれでも「人を疑いながら、騙されまい」として生きている。しかし、「人を信じて、その結果騙されてもよいではないか」と開き直るのである。そうすれば人を信じることもできるようになる。人間不信から解放される。
人の善性を信じるということはなかなかできるとではない。世の中には人を騙して甘い汁を吸おうとするやからがひしめいているからだ。しかし、ほんとうに人を信じている人間には、どんな悪人も害をおよぼすことはできないのではないか。
ところで、私が最初考えた幸福への2番目の条件は、これとは少し違っていて、「信念をもつ」というふうなことだった。信念をもつことで、私たちは心に心棒ができて、右往左往しなくなる。そうすれば「他人と比較する」こともなくなる。
もっともここで「信念」というのが何か頑固な信条というふうなものではない。もっとやわらかで大きなものだ。それはたとえば山折さんのいうような「人を信じる」ということでもよい。もっとはっきり言えば「仏性」を信じる、底抜けに明るい、おおらかな心である。
それではどうしたらそうした悠然とした心が養われるのか。その心を養うのに最適なのが「ひとりで歩く」ということである。ひとりで歩くことでおおらかな平常心が養われれば、他人も自分とおなじ存在として眺めることができる。
そうすれば利己心から他人と自分を分け隔てて比較をすることもなくなる。そしておおらかな心で自分をも他人をも等しく愛することができるようになる。こうして、これらの3つの条件が三位一体となって、私たちを幸せにしてくれる。こううまくことが運べば、人生はばら色である。生きることが無性にたのしくなるのではないか。
さて、今日は京都で学校の忘年会がある。祇園の料理屋に12時に集合することになっている。残念ながらまだ「青春18切符」が使えない。そこで、一宮インターの近くで待ち合わせをして、数学科の同僚のO先生の車に乗せてもらうことにした。
忘年会が終わった後、その界隈を散歩しようと思っている。そして今晩はその近くにあるユースホステルに泊まる予定である。明日もまた京都の街を気ままにひとりでぶらぶら歩いてみようと思う。その様子を、明日の日記に書くつもりだ。
(今日の一首)
たのしみは祇園の茶屋でひと騒ぎ そのあとひとりで古都を味わう
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