お気に入りのコーヒーカップがあって、これって愛情かな、と思う。 愛情があるって時はどうすんだっけ、と思い、近くで見たり、遠くから眺めたり、それからコーヒーを入れて飲んでみたりしたが、べつにこんなの愛情じゃないなと思った。 コーヒーカップに自分の骨を入れたいのだが、どう考えても入りきらないので沢山のコーヒーカップに分けて入れてもらおうかな、と思う。 砕いて紙にのせてさらさら入れてもらいたい。箸でつままれるのは、どうも恥ずかしいから。 生きるのが面倒なのは、不幸だからでなく、生半可な幸せと堪えられそうな不孝が交互に来るからではないだろうか。 大した絶望でない絶望が降り注ぐので、大した諦念にも辿り付けず、面倒なのに面倒とも思えず、知らぬうちに生き抜いてしまうのかもしれず、 いや だまされないぞ!! (わからん) (なんだよ、だまされないぞって) (第一だまされる人の方が楽に生きられるんじゃないのか) (でも、知らない方がいい事なんて、何一つないのだ) (ああ) どうもいつもの憂鬱な時期に突入したらしく、また暫く考え込む文章になるかも知れん。読まない方がいいかも。 もしも、不幸になれるなら不幸な方がいいのだ。 不幸ならば人生を嘆いていれば済む。楽ではないか。 世の中に不満だけぶつけていればいい。 でも現実は幸、不幸の二元論では語れない。 どんな気持ちで人生と対峙すればいいのか、まっすぐに生きる勇気も、逃げる勇気も持ち合わせずに、ただ時が過ぎてしまうのだろうか。 問題なのは私が世の中を好きだという事であると思う。 私が私の人生を愛してしまってる事だと思う。 もっと自分を虫けらのように扱う事が出来ればいいのにな、とか。 まわりの人のことも嫌いになれれば楽なのに、とか。 たまに世の中の人が皆、悪人だったら良いのに、と思うことがある。 そうだったら、ただ憎めば良いのだから楽だろうに。 ふっ。 ところで引田天巧ってなんなんだろう。 どーでもいいが岡崎京子の「ハッピーハウス」の愛蔵版みたいのが出てたので立ち読みしてきた。すごい。よくこんなの描けたなと思う。
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