2003年12月17日(水) |
室酌者爵縞竺借叱酌柴宍 |
「ありがとう」と「ごめんなさい」って紙一重です。
例えばダレかが自分の為に苦しい思いをして助けてくれたら。 「ごめんね・・・」これもOK 「ありがとう・・・」これもOK。
そんな時、あたしはありがとう、と言いたいなぁ。
どうして突然こんなことを言い出しちゃったのかって。 あたしの友達に、「ごめんね」って言われるのがダイスキな人がいるんだ。 いや、ごめんねフェチとかでなく。
たとえばその友達Kさんとします。 夜遅く、あたしのダイスキな海老料理を作ったからと言って部屋まで 届けてくれたKさん。 あたし、別に依頼したわけではない。 だけど、ダイスキな海老を仕事後の空腹に食べられるなんて コレ以上の幸せない!!!
だからもちろんあたし、Kさんに「ありがとうううう!!!!」
・・・なんだけどこのKさん。 ありがとう、よりも 「こんな遅くにあたしのために寝る時間削って作ってくれて・・・ごめんね」
っていわれる方が好きなんだ。 え、どういうところからわかんのよ、と言われても長年一緒にいて 知ってる雰囲気だからなんとも説明できないのだが。
そう。どうしてKさんがありがとうよりもごめんねが好きなのかって、
自分がした苦労や行い、すごいね、申し訳ない、って思ってもらいたいんだ。 そうつまり、例えばこの海老話の場合。
「あたしはあなたに喜んでもらいたい、だからあたしがやる、っていう自分の意志でやったんだよ」っていうキモチでなく
「あなたが喜ぶと思ったからやってあげたんだよ。大変だったの。ねぇ、ほめてよ。すごいでしょ」っていう土台のもとやってるということなんだ。
だから例えばこういう会話もあったりする。 「ねぇ、あたしさ、Fの誕生日に時計あげたのにFってばあたしの誕生日には 手紙すらくれなかったんだよ。ひどくない!?」と。
誰かに何かをしてあげるとき、見かえりが欲しいから、だとか ほめてもらいたいから、というキモチでもってコトを行っているのを見ると 「あなた、自分の意志は?」って思います。よねぇ。
すべて『ダレかにほめられたいから」だとか『認められたいから』だとか 他人本意の動機でモノゴトすすめるのって、アホくさ。と思います。 用を足した後トイレットペーパーがないことに気付くことくらい アホクサイですね。
何かを行う時、それを「行う」と決めたのはどんな背景があるにしろ 100%自分の意志であるはずです。
例えばダレかにイヤなことを頼まれてものすごいイヤでイヤで仕方がないけど やったとする。
それは、「だってあいつがどうしても、っていうから・・・」でなく あくまでも「(イヤだけど)やる」と自分の心が決めた行動であるはず。
本当にイヤなら断ればよし。 だって断れなかったんだもん、とかなし。 断れないからやる、と自分の意志がそう決めたんです。 だからやるならぐちゃぐちゃ言うなと。
だから、あとから何かについてぐちぐち言ったりするのとか、 ホントありえない。
・・・あ、ハナシが得意でそれましたね。
まぁつまり、「ごめんね」もあたしはあまり好きでないのです。
本当に明らかに申し訳ないから、という「ごめんね」以外のそれは その場しのぎでもあり、八方美人でもあり、意志のなさでもあり、 あり、あり・・・・・。
ほら、だんだん何が言いたいのかわからなくなっちゃってますよコノ人は(笑)
まぁ、そういうことです。(逃げたよ)
ごめんね、と言いそうになった時、それは「ありがとう」でも よい意味だったとしたら、あたしは「ありがとう」がほしいです。
何かしてあげてごめんね、と言われることは嫌いです。
チャンチャン。(効果音で無理やりだよコノ人は)
|