アナウンサー日記
DiaryINDEXpastwill


2001年04月09日(月) 英語の話・・・その7(父の話1)

 亡くなったワタシの父は、英語が堪能だった。


 昭和4年生まれの父は、終戦間際、数えの16才で特攻隊に志願し、鹿児島の鹿屋航空隊で飛行訓練をしながら「特攻の順番待ち」をしているうちに終戦を迎えた。

 戦後の混乱の中で、働いて妹たちの面倒を見ながら、なんとか地元の長崎外国語短期大学を卒業した父は、海上自衛隊に入隊した。


 当時発足したばかりの陸海空・各自衛隊では、まずもって「諸外国の航空管制システムに追いつくこと」が急務とされていた。新入隊員を中心に「英語が得意な者」を選抜してアメリカに留学させるプロジェクトが発足し、英文科出身の父もメンバーに選出された。


 留学命令を聞いたとき、父は愕然として頭を抱えた、と言う。


 実は・・・父は、英文科出身の割に英語が苦手であった。

 父はもともと、語学系ではなく法律系の4年制大学を志望していたのだが、入試直前に「医師の誤診」でただの風邪を伝染病扱いされ、隔離病棟に収容されてしまったのだ。働きながら夜間高校に通っていた父だが、長崎県のアチーブメントで1番になったこともあり、「試験を受けさえすればどんな大学でも受かる」自信はあったそうだ。
 だが、数日後に誤診と分かり、退院が許されたときには、もう大学入試シーズンは終わっていた。

 運良く父は、地元の長崎外国語短大に、推薦という形で入学することができた。父は「学問の場が与えられたこと」に素直に感謝し、熱心に勉強した。

 それでも、もともと好きではない英語にはやはり食指が動かず、もっぱら法律の研究に没頭したという。卒業する頃には「どんな大学を出た人間にも、法律の知識なら負けない」といえるほど、頑張ったそうである。かくして、英語が苦手な英文科卒業生が生まれた。(つづく)


メインページへ→ |HomePage

My追加