アナウンサー日記
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2001年04月10日(火) 英語の話・・・その8(父の話2)

 留学候補生たちは広島の江田島に集められ、およそ2ヶ月の間、英会話を初めとした、留学に向けての特訓が行われた。昭和20年代後半のことである。


 父はその授業にさっぱりついていくことが出来なかった。


 戦争で中学に通っていない父は、英文法の基礎がすっぽり欠け落ちている。戦後のどさくさに紛れ夜間高校に入学したときは、アルファベットの読み方がなんとか分かるくらいのものだったらしい。
 前述の夜間高校時代のアチーブメントでの好成績は、英語以外の教科で挽回することで達成していた。高校・短大の英語の定期試験については、教科書を丸暗記することで何とか乗り切った。それは、例えば「Smoking is not allowed on most international flights.」と言うような英文を、「文章」ではなく「ひとつの絵」として覚える、強引な暗記の仕方だった。文字の配列とか文法を理解していないので、まったく応用が利かない。

 だが、アメリカの航空管制官養成スクールで授業を受けるためには、英語が話せなければ、それこそ話にならない。父は、英和辞書を「A」から順に丸暗記する誓いを立て、覚えたページを1枚ずつ破って、忘れないようにそのページを食べた。


 あっという間に準備期間は終わり、父の留学先はシアトルに決まった。30人ほどの仲間と、練習船に乗って太平洋を渡った。行き先は同じアメリカだが、留学先は数箇所に分かれている。この航海の様子は、8ミリフィルムに収められており、6年前に父が亡くなった直後、私達家族もその映像をみることができた。ほんの一瞬フレームに映った甲板の父は、日焼けした引き締まった顔に笑顔を見せ、どこか誇らしげな表情に見えた。
 
 
 1950年代のアメリカ人の生活は、父にとってまるで夢の世界だった。


 アメリカはすでにモータリゼーションを迎えており、車は一家に1台。それどころか、各家庭には、テレビ、冷蔵庫、自動食器洗い機・・・と日本ではなかなかお目にかかれない電化製品が、当然のように置いてあった。また、その家の一軒一軒が、日本の長屋よりも大きい。だだっぴろい庭はきれいに刈られたグリーンの芝生で、大抵、大型犬を飼っていた。


 「日本は、こんな連中と戦争をしたのか・・・」


 アメリカの想像を絶する豊かさに、愕然とした瞬間だ。(つづく)


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