アナウンサー日記
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2006年12月29日(金) |
「かしこさ」の指標のつづき |
では、「天才」とはなんだろう。
率直に言って、知能指数140〜150程度の人間を「天才」と呼ぶことに、私は非常に抵抗がある。 だってその程度の知能の持ち主は、確率的には100人にひとりかふたりはいるのである。日本全体だと、1万2000人も天才がいることになる。 そんなありふれた人間たちを「天才呼ばわり」するのは、歴史に名を残した「真の天才たち」に対して、大変失礼な行為ではないだろうか。 「天才」というイメージに合致するには、実在の人物であればダビンチやソクラテス、エジソン、架空の人物であれば鉄腕アトムを作った天馬博士や御茶の水博士級の非凡なオーラが無くてはならない。
だがエジソンほどの超人的天才は、世界広しと言えども、なかなか存在しないだろう。まあ、だからこそ彼らは、偉人として伝記になったり、物語の登場人物になったりしているわけだ。 さらに言うと、歴史に残るような天才たちを現代の尺度で知能指数化すると、意外と低い数値になってしまうこともまた、良く知られている。 知能指数は所詮、人間の持つ様々な才能の「ごく一部」を測定しているに過ぎないのだ。
話を元に戻そう。
我々がイメージする天才・・・例えば「どんな難しい専門書でも、さらっと一読しただけで、その内容を全て理解できてしまい、覚えてしまえる人」も、実はこの世の中に確かに実在する。
だがそれは、100人に1人なんて「高い」確立では絶対に存在しない。 もっとほんの少しの人数・・・恐らく、この日本全体に果たして何人いるだろうか・・・というレベルの人数だ。
荒っぽい言い方をすると、それ以外の人間の頭脳はみな「50歩100歩」である。 もちろん、多少の出来不出来はあるだろう。 だが、100メートルを9秒台で走るオリンピック金メダリストと比べれば、11秒台の学校一足が速い子も、13秒台の平凡な子も大差ないのだ。
ではあらためて、「天才」とはなにか? 「天才」は、我々凡人には、やはり手の届かないところにあるのか?
去年の大ヒット映画「NANA」の中で、登場人物のカリスマ・ミュージシャンRENが「天才だと思われたくて、誰にも見られないところで毎日必死にギターを練習したんだ」と述壊するシーンがあった。
アメリカ・大リーグのイチローは、素晴らしい才能の持ち主だが、それ以上に努力の人であることもよく知られている。
私はこう思う。 ・・・我々平凡な人間は、エジソンや御茶の水博士にはなれないかもしれないが、ひょっとしたら、RENやイチローにはなれるのではないか?
「なれない」と思っているあなたは、なれない理由を探しているだけなのかもしれない。
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