思考過多の記録
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何か目的を達成しようと思えば、それが大きなものであればある程、また確実に達成ようとすればする程、多くの仲間がいる方がよいと考えるのが世の常である。そこで、志を同じくする者を募り、この人はと目をつけた人物を口説き落として仲間にする。もし同志の中に飛び抜けて魅力的な人物が混ざっていたり、目指す目的が人を衝き動かすのに十分な程魅惑的であったりすれば、その集団は大きくなっていくだろう。まさに申し分のない展開である。目的の達成はほぼ確実であるかに思われる。だが、まもなく問題が起こる。 ままあることではあるが、目的の達成を目前にして、同志達の間で目的の中身をめぐって思惑の違いが表面化するのだ。自分はどんなことをしても山に登るつもりであったという者もいれば、海を目指していたはずだという者も出てくる。同じ山に登るにしても、絶対に頂上を目指さなければ意味がないという勇ましい者がいるかと思えば、天候から判断してベースキャンプから金輪際動くべきではないという慎重派・現実派もいる。同じ場所を目指していたと思っていたのに、よくよく聞いてみると人によって思い描いていたものが天と地ほど、あるいは微妙に異なっていたのだ。また、目的達成のためにとるべき手段についても、同様に意見が分かれてしまう。これは所謂指導者といわれる人の力量の問題ばかりとはいえない。集団を作るということは、本質的に同床異夢を生むということである。 さて、もう一つの問題は、こうなった場合の所謂指導者のとるべき道である。あくまでも自分の信念に従って、たとえ同志の一部もしくは大部分を失うことになっても、頑として当初の目的の追求を続けるという行き方がある。一方で、同志の結束を維持し、集団を崩さないために、当初の目的に変更を加えるという行き方もある。前者を教条主義、後者を日和見と呼ぶわけであるが、「目的の達成」という観点から見てどちらが正しいあり方であると断定することはできない。前者は純粋さを保ち、最初の目的により近い場所に到達できるというメリットがある。達成感も充実感も味わえる。だが一方、多くの脱落者を出す可能性も高くなる。当然集団の規模と力は見る間に萎み、結束は堅くなるだろうが周りに敵が増える。目的の達成はおろか、生き残りもままならないかも知れない。下手をすれば、指導者もしくは同志のうちの誰かが寝首をかかれる事態に発展する。また、目的のためには手段も選ばずという方向に流れやすくなる。錦の御旗が血で染まるというわけだ。では、後者の場合はどうか。確かに集団の大きさは維持できる。妥協に妥協を重ねても、何とか5合目くらいまでは到達できる可能性はある。最後まで衝いてきた人間全員に、何らかの報酬が行き渡ることになろう。ただ、それが全員の望んだものとぴったり一致するということは、まずない。こんなはずではなかったという思いを、指導者も他のメンバーも味わうことになる。手にしたものは目指してきたものではなく、無理をすれば辛うじて目的のものだと思いこめる程度のものなのだ。消化試合でAクラス入りを決めた野球チームのようなものだ。同志の多くは集団にとどまるだろうが、次の目的に対しても指導者の思惑通りに積極的に動いてくれるとは限らない。 集団を作るとは本当に困難である。だけれども一方、人間は集団を作らなければ生きていけない。好むと好まざるとに関わらず、多くの人は日々このパワーゲームに巻き込まれているのだ。僕自身いくつかの集団に属しているし、集団を自ら作ることもある。錦の御旗と自分の信念だけを考えて突っ走ることと、錦の御旗は取り敢えず忘れて、他のメンバーの意見を聞きながら「最大多数の最大幸福」を目指して進むことでは、本当のところどちらが有効なのか。それとも、最初から自分の「目的」など持たずに、報酬と満足感を与えてくれそうな錦の御旗を探して右往左往するのが正しい行き方なのか。僕はいつでもそこで立ち止まってしまう。 いずれにしても、すべてが同床異夢の中の出来事である。何処まで続く泥濘ぞ。
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