思考過多の記録
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何といってもオリンピックである。メディアを見る限り、日本中がその話題で持ちきりだ。烏の鳴かない日はあっても、日本選手の活躍が報道されない日はない。世間は大騒ぎのようだ。やわらちゃんが金メダルを取ったといえば騒ぎ、サッカーが決勝トーナメントに進んだといっては騒ぎ、水泳でメダルが出たといっては騒ぎ、女子ソフトボールがアメリカに勝ったといっては騒ぎ、柔道の決勝の判定がおかしいといっては騒ぐ。しかし、はっきり言っておくが、僕自身は全く熱狂していない。別に日本選手がメダルを取ろうがとるまいが、大きな問題ではないと思っている。サッカーが決勝トーナメント進出を決めた次の日の朝、ニュースのアナウンサーが「日本中が沸きました」と満面の笑みをたたえて言ったが、別に僕は沸いてはいない。ところが、何となく「日本中が沸いている」ような気にさせられてしまう。何だか沸いていないと仲間はずれで、日本人じゃないみたいだ。そう思わされてしまうというのは、実は結構怖いことだ。 田村亮子選手の金メダルは、確かに感動的なことで、喜ばしいことである。けれどもそれは彼女の努力の結果である。メダルを取りたいという思いは競技者としては当然のものであろうし、そこまでのプロセスや試合で頑張る彼女の姿を見て感動するというのは分かる。それこそがスポーツの素晴らしさのひとつであるからだ。間違ってもそれは日本柔道の偉業ではないし、ましてや「日本」の成果であるはずもない。彼女は日本人である前に、一人の競技者として戦ってきたのだ。別に「日本」という得体の知れないものに望まれてメダルを目指していたのではあるまい。僕達は彼女自身の戦う姿とその結果に対して拍手を送るべきである。決して「日本」が勝ったことに対してではない。第一、表彰式で日の丸と君が代にジーンとするなどというのは、「日本」というものが背景になければ彼女の成果に感動できないということを表明しているのに等しく、彼女に失礼である。だが多くの人は、無意識のうちに彼女の後ろに「日本」という得体の知れないものの影を見ているのではないか。だから彼らは、オリンピックで選手達を応援して、熱狂する。それが証拠に、彼らの多くは普段国内で行われている柔道の試合にこれ程の興味は示さない。柔道だけではない。女子ソフトボールなどその典型である。何故か。彼らの大部分にとって、競技の中身は問題ではないのだ。大切なことは選手の後ろに見え隠れする「日本」が勝つか負けるかだけだ。あの「ニッポン!ニッポン!」という絶叫の応援がそれを証明している。彼らは、自分達では「日本チーム」(「日本選手」)を応援しているつもりなのであるが、熱狂の中でいつしか「日本」そのものを応援し始める。そして、自分もチーム(選手)とともに「日本」と同化したようなカタルシスを味わうのである。 「日本」というのは、それほどやっかいな存在である。特にこの時期、こんな文章を書いたりすると、まるで「日本」を否定しているかのように受け取られて袋叩きにあいそうだ。「日本」だというだけで熱狂的になってしまう、またはなることを半ば強要するというのは、はっきりと「ナショナリズム」である。健全なナショナリズムならいいという識者も結構いるが、僕はそれに対しても懐疑的である。ナショナリズムは基本的に麻薬のようなものである。僕は、日本人が歴史的な意味合いも分からずにオリンピック会場で日の丸を振り回したり、顔に日の丸を描いていたり、君が代に感動したりするのを見るたびに、非常に薄ら寒い感覚を覚える。そうやって彼らはナショナリズムに対する免疫を作られていくのだ。麻薬を打たれ続けた体がどうなるかは、子供でも分かるだろう。 「自分の国を愛することのどこが悪い」と言われそうである。確かに、そのこと自体は間違ってはいない。ただ言えることは、「日本」はそこまで甘くないということだ。ある時「日本」は、僕達を押しつぶすかも知れない。それに、よく考えてみると、「日本」という国が未来永劫存在するとは限らない。その時「日本」は僕達を守ってはくれないだろう。だとすれば、「ナショナリズム」に何ほどの意味があるというのか。オリンピックの熱狂は、こうした冷静な思考を忘れさせてしまう。それこそが「日本」の狙うところだ。その術中にはまってはならない。僕達はもっとクールになっていいと思う。 とはいえ、それは僕ごときがこんな場所で敢えて言うまでもない事かも知れない。オリンピックが終わって3日もすれば、人々は「日本」の存在などきれいさっぱり忘れてしまうだろう。それでも日々の生活に支障はない。だが、それが曲者だ。次に「日本」が強面で僕達の前に現れても、僕達には「日本」が微笑んでくれているように見えてしまうかも知れないのだ。
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