思考過多の記録
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2000年09月23日(土) 無神経な人達

 昨夜のテレビのニュース番組に、教育改革国民会議の座長を務める著名な学者が出演していた。21世紀の教育の在り方や改革のポイントを話している時、その学者はこういう趣旨の発言をした。「これまでの日本は、農業や労働者中心の社会だった。この種の仕事は、マニュアルさえあれば誰にでもできる、いわばルーティーンワークである。しかし、これからはIT革命などがあり、個人がいろいろ考えて能力を発揮していかなくてはならない社会だ。そういう人材を作る教育に変えていかなくてはならない。」この発言、確かにそうだなと思わせる部分もある。だが、よく考えてみよう。特にこの発言の前半部分に注目すると、裏を返せば、「農民や労働者は何も考えていない」または「農業や単純労働は、何も考えなくても誰にでもできる」という意味のことを言っていることになるのである。明らかにここには、農民や労働者に対する差別意識が見て取れる。むべなるかな。この人はノーベル賞まで受賞した物理学者である。農民や労働者とは脳の作りが違うと思っているのだろう。無神経な発言としか言えない。勿論、単純労働と見える農業やホワイトカラーの仕事でも頭を使う場面は山ほどあり、誰にでもできるというものではない。果たして番組に抗議があったらしく、この学者が帰ったあとにキャスターが「そういう意味ではない」と釈明していた。当のご本人は、この発言がそう受け取られることについて全く意識がなかったようである。
 それで思い出したが、数週間前に読んだ教育について書かれた新聞記事の中に、こんな投稿があった。小学校の班分けの時の話である。班長が好きな人を取っていくというシステム(これ自体が十分すぎるほど無神経なものであるが)であぶれた人(投稿の主)に、担任の教師が(おそらくクラス全員の前で)「自分がどうして嫌われたのか考えてみなさい」と訊いたというのである。小学校低学年時代にこまっしゃくれた嫌われ者だった僕には、この時のこの投稿主の気持ちが痛い程よく分かる。自分が誰からも選ばれなかったという事実だけで、その人は十分打ちひしがれている筈だ。その人に対して教師は、何故こともあろうに追い打ちをかけるような言葉を浴びせなければならないのだろう。おそらくこの教師は、教育的に正しい指導をしたのだと(おそらく今でも)思っていることだろう。クラスの大多数から嫌われる→嫌われた子には悪いところがある→その原因を自分で分からせ、改善させれば、その子はきっとみんなから好かれる子になるので、仲間はずれにはされなくなる。こういう図式に従って、この教師は言葉を発したのだ。ここには、嫌われてしまった子供の気持ちというものが全く考慮されていない。何故なら、この教師にとって、嫌われた原因はその子供の方にあるという結論が最初からあるからだ。自分の一言でその子供がどれだけ傷つくのか、ひいてはそれがその子供の成長にどんな影を落とすことになるのかというところに、想像力が及んでいない。これも非常に無神経な一言である。むべなるかな。教師の多くは、学生時代はいろいろな意味で優等生だった人達だ。彼らの多くには、はみ出し者の気持ちを慮ることは不可能である。学生時代、おそらく彼らはそういう人達とは一線を画して過ごしてきたであろうからだ。そして、現在の教員採用システムでは、そういう人種しか教師にはなれない。
 無神経な発言をする人達に特徴的なのは、自分達が無神経な発言をしているという意識がまるでないことである。自分が発した言葉で傷つく人間がいることなど、思いも寄らない。また自分の言葉が自分が想像もしなかった意味に受け取られてしまう場合があるということにも、全く気付いていない。どうすればこんなに言葉に対して、また相手に対して鈍感になれるのか不思議なくらいである。繰り返しになるが、ここにあるのは想像力の欠如である。そういう人間は、少なくとも生身の人間に関わる教育を語ったり携わったりすることだけはさけてほしいと、僕は切に願ってしまう。
 かくいう僕自身、もしかすると無意識のうちに無神経な発言を連発しているのかも知れない。ただ僕の場合、そういう場合は、こんなことを言うと相手はきっと怒るだろうということが分かって発言していることが多い。相手に思考を促し、刺激を与えて議論を活性化させようという意図からだが、考えようによってはこの方がずっとたちの悪い無神経さだったりする。


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