思考過多の記録
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2000年09月25日(月) |
世界の片隅から消えていく猫 |
今日、僕の職場の先輩が退職した。僕とさほど年齢の変わらないその人は、仕事上の理由で退職に追い込まれたのだけれど、ご本人は、勤続10年半にしてまさかこの会社を去ることになろうとは思ってもいなかったに違いない。同じ職場の大方の人間にとって、このことは寝耳に水であった。その人がどんな状況におかれているのか、皆薄々分かってはいたものの、まさかそんなことになるとは想像だにしていなかったようである。そんなショックの中でも、現実問題としてその人が残した仕事をどのように進めるのか、また1人抜けたあとの体制はどうなるのか、話は必然的にそちらの方に進んでいく。会社というのは組織なので、無理もないことだ。たとえある社員が会社の現状を批判して抗議の自殺をしたとしても、会社は冷静に彼の後任を選び出す。そして、何事もなかったかのように組織は動いていくのである。 その先輩の突然の退職を知らされた会議が終わると、僕達は、内心は穏やかでなかったとしても、それまでと同じように自分の仕事を始めた。会社とは、組織とはそういうものである。去る者も残る者も、1人の人間であって、同時にそうではない。僕達は皆、組織の中では非人称的な存在なのだ。自分がいなくなっても、誰にでも取り替えはきく。自分はかけがえのない存在でも何でもないのである。当座は困ったり、悲しんだりしてくれるが、それも長くは続かない。日常という風景の中に不在の記憶は埋没していき、その人を思い出す回数もだんだん減っていく。机や残された持ち物といった、その人の存在の痕跡は徐々に(または即座に)消し去られ、やがてはその人の存在はほぼ完全に忘れ去られる。数年前、僕の会社が別の場所にあった頃、その建物のトイレで当時働いていたアルバイトの男性が首を吊った。そのことを、一体今会社にいる人の何人が覚えているだろう。 こうして、何も変わらない日常が永遠に繰り返されるかと思われる僕達の生活でも、気が付けばあらゆることが長い時間をかけてゆっくりと、またある日突然劇的に、変化していくものだ。変わらないものなど、何もないのである。学校に入学した時、自分が卒業することが信じられなかった。だが、季節が何度か巡れば自分たちの卒業式はやってくる。いつも立ち寄っていた店に暫くぶりで行ってみると、思いもかけず閉店していて、次に通りかかった時には全く違った建物が建っているのを発見するようなことは、日常茶飯事である。時の流れとともに人や風景も移ろい、やがて姿を消してゆく。同じように僕達は、いつか人知れずこの人生という舞台を去っていくことになる。そして、僕達が去った後も、この国は、そして世界は何事もなかったかのように回っていくのである。僕達の替わりなど、いくらでもいることは間違いない。彼等の方が僕達よりもずっとましかも知れないのだ。世界はこうやって新陳代謝を繰り返している。そのことを否定することはできない。その事実をはっきりと認識したとき、人は何をしようとするのか。僕はこういう場面に出くわしたとき、いつでも「人生は一期一会。今、この瞬間を大切に生きよう」などと全く月並みなことしか思い付かない。が、その思いは年々強まっている。 奇しくも今朝、出勤途中の道路で、車にはねられて横たわる猫を見た。屋根から屋根へ、路地から路地へと機敏に走り回っていたはずのその足は今や動かず、見開かれた目はもはや何も見てはいなかった。やがて誰かがこの猫を片づけてしまえば、この猫の存在は永遠にこの世から消える。僕もそのうち思い出さなくなってしまうだろう。会社を去る人、人生の舞台を降りる人。時の流れに移ろう人々…。みんな世界の片隅から消えていく猫と同じなんだと思うと、たまらなくやるせない気分になった。
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