思考過多の記録
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2000年09月26日(火) 思考のスピード

 この日記の一番最初の文章にも書いたのだが、僕は過去を限りなく微分する癖がある。過去だけではなく、今この瞬間ですらついついそうして考えてしまったりすることもあるのだが、これは困りものである。なぜこんな癖がついたのか。原因は僕の頭の回転の遅さにある。僕は人と会話していて、その会話のスピードに思考が追いついていないことが多い。勿論相手の言っていることを瞬間瞬間で的確に捉えようと、精一杯努力はしている。しかし、如何せん処理能力が足りないので、いわんとすることの全貌や、その発言の深い意味などをその場で察知することができないのである。これは本当にお恥ずかしい話だ。だから、例えば相手の発言に対して自分がとったリアクションを後で思い返してみると、適切でなかったことが多かったりするのである。あんなことを言ってしまったけれど、あの人の気持ちを考えればこう言っておくべきだったとか、彼の昨日の行動はこういう意味があったのではなかったか、だとしたら僕はあのような行動をとるべきではなかったな、などという後悔の念が1日、2日たってからわきあがってくる。その瞬間に分かっていればもっとうまくできた話である。そうやって僕はいろいろな人を傷付けてきたのかも知れないと思ってしまう。まるで太宰治の小説のような一生を送っているみたいである。
 拾い読み、斜め読みという読書の方法がある。大切そうな部分を選んで読んでいくやり方で、小説には適さないが、エッセイや評論などはこれで読めると世間では言われている。が、僕はこれもできない。それどころか普通に読んでいても、いくつかのセンテンスを読み終わる度に、自分が本当にその文の意味を理解したのか不安になって、もう一度同じセンテンスを読み返してしまうのだ。結果、一つの文章を読むのに大変な時間がかかることになる。立花隆のように速読で長文の意味を理解してしまう人に比べたら、僕は処理能力が低い分、一生のうちに読める本の量はかなり少ないのではないか。事実、僕の部屋にはいつか読もうと思って買った本が堆く積まれている。悔しいけれど、結局読めなかったという本も出てくるかも知れない。しかも、そうやって時間をかけて読んでいるのなら、その本の内容をかなり微細にわたって覚えているはずなのであるが、どうやらそれもない。後で読み返してみて、「ああ、ここに書いてあったのはそういうことだったのか」とやっと理解するという有様だ。その理解も的確なものであるかどうかはかなり怪しい。何ともお粗末な話である。
 その瞬間に的確な判断をしながら会話や生活を送っている人と、僕のような人間とでは、思考のスピードが違うのであろう。というよりも、世の中のスピードに僕の思考のスピードが追いついていないというのが実態ではなかろうか。だからいつも僕は、瞬間瞬間に慌てふためく。焦っていれば、当然じっくり考えられない。それで的外れな返事をしたり浅はかな行動をとってしまったりする。かといって、考えすぎると全く動けなくなる。とかく人の世は住み難い、とまるで夏目漱石の小説のように慨嘆してしまう。
 よく人は波長が合うとか合わないとかいう言い方をする。それは多分、この思考のスピードと深度が合っているか否かをいっているのではないだろうか。同じスピードで考える人と一緒にいれば、あたふたすることもない。同じくらいの深さで考えてくれる人となら、思考のすれ違いが比較的少なくてすむ。とはいえ、やはり人と人とのコミュニケーションである。微妙な違いは生じるだろう。それを吸収して、相手のスピードに合わせてあげられるくらいの余裕を持ちたい。それには、苦しみながらもいろいろな早さで考える現場に立ち会い続けなければと思う。この日記も、実はそんな訓練のひとつである。


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