思考過多の記録
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2000年09月30日(土) 純粋ということ

「昔は、本を読んだらその内容を全て信じたり、共感してばかりだったけど、この頃は取捨選択して読むようになった。これは純粋さがなくなったってこと?それとも、大人になったということなのかな」。これは、僕のごく親しい女性の呟きである。20代も後半にさしかかろうという彼女は、彼女と同年代の人間に比べればずっとピュアな心をもっている。そんな彼女ならではの言葉である。
 僕達がまだ幼い頃、親や教師の言うことが絶対だった時期がある。大人たちの発言や、本に書かれたことに間違いなどある筈もない。大人が提示するものが僕達の世界の全てであった。勿論、大人の目の届かないところで、僕達はいろいろな発見をしていた。雑木林の奥や用水路のほとりや路地の裏や庭の片隅で、僕達は大人には見えないものを見ていたに違いない。また、大人には言えないことをしてしまったこともあるだろう。親も先生も誰も知らない人間関係に悩み、傷つき、また喜んだこともたくさんあった。小さな恋物語もあったかも知れない。しかし、依然としてそれを取り巻く大きな世界は、僕達には見えていない。大人の目を通してしか、僕達は世界を見ることができなかった。大人が示すものを、僕達は全て受け入れるしかなかったし、それが当然だったのである。
 やがて、僕達の身体に変化が訪れる頃、今度は親や教師の言うことが全て信じられない時期が来る。大人たちの発言や本に書いてあることが、ことごとく僕達がすること、考えることとぶつかるのである。無理もない。僕達は今を生きているのに、大人たちは過去という物差ししか持ち合わせていないからだ。こうして僕達は、親や教師とは違う世界を手に入れようとする。同世代か、少し上の世代の発信するものを貪り、それに共感して自分を確かめる。また、他の大人達とは違った世界観を持った大人を探し、自分との接点を見出せば心酔して、言動や持っているものまで真似して、何とかその人に近付こうとする。この過程で、僕達は僕達なりの世界を獲得する。そして、僕達自身の目で世界全体を把握しようとする。(それはある種の錯覚で、依然として僕達は、自分が影響を受けた人・ものという窓から世界を見ているにすぎないのだけれど)。周囲の大人達の提示する世界に対抗して、何とか自分の目で世界を見つめ、その全体像を描こうとあがくのである。
 この二つの時期の僕達は、それぞれ違った意味で純粋である。全てをあるがままに受け止める幼年時代、そして、たとえ周りから間違っているといわれても、自分の世界観だけに照らして拒絶するものは拒絶し、絶賛すべきは絶賛できる青年時代。どちらの時期も心は元気で瑞々しい。いろいろなことを素直に感じ取り、それに反応する力がある。
 そして今。大人になった僕達は、かつて何でも知っていると思っていた大人も、実は世界の全てが見えているわけではなかったということを知っている。真実だけが書かれていると信じて疑わなかった本には、往々にして現実すら反映していない穴だらけの文章が書き連ねられている。そして、僕達の多くは、日常生活の中で自分の身の回りのことに気を取られ、世界全体を見ようとしなくなる。かつて大人達がそうしていたように、今目に見えているものが世界だと思って暮らすようになる。日常の雑事を山ほど抱える僕達にとって、その方がずっと楽だからである。こうして、心はかつてのように敏感に何かを感じ取るということはなくなり、まるで流れ出した溶岩が冷えて固まっていくように、急速にその感受性を失っていくのである。
 僕とごく親しい彼女は、日常生活に追われながらも、自分なりに世界を把握しようとしている。本を読み、音楽を聴き、映画や舞台を見る。また、日常生活の中の些細な出来事にも何かを感じ取る。その体験の一つ一つに心が敏感に反応しているのが、僕にはよく分かる。そしてその感受性は、幼年時代や青年時代のものとは違い、少しずつ深まり、研ぎ澄まされてきているのである。彼女のHPを見てもそのことが伝わってくる。勿論彼女はまだまだ若いけれど、年齢を重ねてもなおそうした状態を保っていくことは本当に難しいものだ。きっと彼女の心は、これからも冷えて固まることはないだろう。彼女は、大人の純粋さのかたちを体現しているのかも知れない。


hajime |MAILHomePage

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