思考過多の記録
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2000年10月01日(日) 「自信」と「過信」

 少し前にこの文章でオリンピックについて腐しておきながら何であるが、今日で終わりということもあるので、そのオリンピックから一つ。あの女子マラソンで金メダルを取った高橋尚子のことである。彼女が直後のインタビューで「楽しい42キロだった」と本当に楽しそうに語っていたのは周知の事実である。そして、まさにイメージしたとおりのレース展開だったこと、あの地点でスパートすることは前日に監督とのミーティングで決めたこと、そしてその通りに走れたことなどを、あの笑顔でこともなげに語っていた。
 スポーツに限らず何かをやろうとする時(特に少し大きな事の場合)は、ある程度の見通しを立てるのは当然である。かなり綿密な計画を立てることもあるだろう。問題は、多くの場合、目論見通りに事が運ばないということなのだ。先の女子マラソンでも、先頭集団のペースが上がったのについていけずに脱落する選手も多かった。自分のペースでレース運びができなかったということである。一方では頭の中でイメージした通りに事を運ぶ人間がいるというのに、どうしてそんな差ができてしまうのか。一体彼女を成功に導いたものは何なのか。勿論、元々持っている力の差があるだろうし、その時々で条件も違う。だから一概には言えないのだが、敢えてここでは「自信」だと言い切ってしまおう。彼女には「勝算」があったと思う。前評判の高さは勿論本人も知っていただろうが、それは逆のプレッシャーにもなりうる。彼女の「勝算」はそんなところからくるのではなく、それまで培ってきたもの、レースでの実績、そしてトレーニングである。コースを下見で何度も走り、体に覚えさせていたというのも大きい。そういうことから判断して、イメージした通りに走れると確信できるものがあったのである。それもなしに一か八かでスパートをかけても、相手に余力が残っていてこちらが力尽きれば、最後に抜き返されるだけの話だ。そうならないかどうかは、まさに運次第である。そして、運に頼るようでは、どんなことでも成功はおぼつかない。「最後には神風が吹く」と言って逆に原爆を投下されたのは、他ならぬ日本であった。
 イメージ通りに事が運ぶと信じられる人間のことを、僕はついつい楽天家だと思ってしまう。「自信」が「過信」につながることはよくある。浮沈神話におぼれて北極海に沈んだタイタニックをはじめとして、ハイテク技術や自分の力を過信して悲劇を招いた例は枚挙にいとまがない。高橋選手のように成功する人間は、おそらく「過信」がないのであろう。レースを振り返って彼女は、「あそこで相手の選手がちょっと遅れたので、今だ!と思って、体と相談してスパートしました」と語っている。その地点に至るまでにも、常に「体と対話しながら」走っていたと言っていた彼女は、レース中常に冷静さを失わなかったのだ。自分の力を客観的に知り抜いていたからこその「自信」である。決して「自分は必ず成功すると思い込む」というイメージトレーニングの類では得られない「確信」に裏打ちされたものだ。「過信」で躓く人間との違いがここにある。
 一方、いまひとつ自信が(ということは当然「確信」も)持てないまま物事に臨んだ人間は、無意識のうちに萎縮してしまっている。だから、自分の持っている力を全て出し切れない。イメージした通りの展開になるかどうか不安なので、自分のペースに持ち込めないのである。結果、他人のペースに巻き込まれて自分を見失う。そして、当然のように敗退していく。結果を見て「ああ、やっぱりね」と思えば、自分の中でも辻褄も合うというわけだ。
 僕自身は、どちらかというとこのタイプだ。悲観的な性格なのであろうか。よく他人から「自信を持て」と言われるが、なかなかそうもいかない。「確信」が持てないからである。だが、「確信」に裏打ちされた「自信」を手にするためには、力を付けるためのトレーニングが必要なのだ。高橋選手にも、あまりの練習の辛さにもう逃げ出したいと思ったことがあったそうだ。それを乗り越えてこその「自信」である。もともと彼女が楽天家だったというわけではない。42キロを走りながら「楽しい」と思える強さを持てた時、初めて「自信」というメダルを手にすることができるのであろう。精進あるのみである。


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