思考過多の記録
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些か旧聞に属するが、神戸連続幼女殺傷事件の酒鬼薔薇がマスメディア向けに書いた犯行声明文が公開された時、あの文章の中身について様々な解釈がなされた。学校や教育に対する恨みが現れている、それが重要な動機に違いないとか、「透明なボク」という言葉に生きているという実感を持つことが難しい現代という時代の病理を読みとったり、犯人の生い立ちを推測したりする者もいた。臨床心理学や犯罪社会学などといった所謂専門的な立場から語られる者から巷間の噂・床屋談義の類に至るまで、実にいろいろなことが語られていた。その殆どがほんの少しだけ当たっていて、同時に殆ど的外れだったことが判明したのは、少年が逮捕された後のことである。しかし、あの犯行声明文が文学的に見てきわめてよくできていたという事実は、あまり語られていない。僕は高橋源一郎がそれを何かの本で指摘しているのを読んで、妙に納得してしまった。勿論、僕はあの少年のしたことを肯定するつもりはない。が、そのこととあの文章の評価とは別の問題だ。 「さあ、ゲームの始まりです」で始まるあの文章は、読む人を妙に引きつける力があった。これまでの犯行声明文で耳目を集めたのはグリコ・森永事件の関西弁のやつくらいだが、あんなちゃちなものとは比較にならないできである。言葉の選び方が文学しているのだ。「透明なボク」というのもそうだし、「一週間で4つの野菜を壊します」という言い方にしても、「一週間以内に幼女4人を襲うよ」という表面上の意味を越えた底知れない不気味さを感じさせる。少年と同年代には勿論、普通の大人でさえなかなかこういう言葉は選べない。逮捕後、「少年の心の底知れぬ闇」という言い方がされていたが(大人達のこの言葉遣いは恥ずかしくなるような紋切り型で、言葉の質では到底あの少年の文章に及ばない)、まさにその闇の中から「文学」が生まれたのである。そして、僕達が「闇の文学」に惹かれてしまったのは、僕達自身の中に「闇」に対する一種の憧れがあるからではないのか。 人間は「善」よりも「悪」に魅了される。それが人間の本質である。古今東西、薬物・金・色情・陰謀・殺人等々、悪の誘惑の種類には事欠かない。何しろ「善」は苦行だが、「悪」は快楽である。「善」を教える芸術作品はおしなべて退屈だが(小学校の課題図書を思い出してみよう)、「悪」を描いたそれは見る者をその世界に引き込む。生のエネルギーが溢れているという感じだ。そして何よりも、美しい。例えばファシズムは「悪」であるとされているが、ナチスの党大会の映像は、モノクロであるにもかかわらず、非常に美しい。美的にいろいろと計算されているのだ。ところが、同じことを宗教団体がやると非常に胡散臭くなってしまう。「善」は人間の本質からはずれているのでどうしても嘘っぽく見えてしまうのだろう。新興宗教から革新政党まで、善意と希望に満ちた笑顔を強調して僕達にアピールしようとする人々に薄ら寒いものを感じてしまうのも、そういう理由からである。繰り返しになるが、完全なる「善」を僕達は信じられない。それは、僕達が「悪」の方に親近感を抱いているからである。 だが、それをおおっぴらに認めてしまっては社会が成り立たない。そこで人々は、悪を嫌悪する素振りを見せる。犯罪者を閉じこめ、「悪」の臭いのする芸術や、「悪」を生み出しそうな人間やメディアを排除しようとする。いつしかそんな素振りが人間のあるべき姿だと思い込むことに成功するだろう。 しかし、それでも悪は栄える。明るい光で社会を照らそうとすればする程、影はくっきりとできるものだ。どんなに逃れようとしても、「人間らしい力を取り戻せ。本当の自分に戻れ」と、悪魔は僕達の耳元で囁き続けるのだ。人間は悪の華に見せられ続ける存在だ。だから人間は神を発明しなければならなかったのであろう。芸術はそこから生まれる。だから、間違っても「善」の伝道師の役割を芸術に期待してはならない。
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