思考過多の記録
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2000年12月30日(土) 20世紀の終わりに

 2000年も間もなく終わろうとしている。そんなわけで「この1年を振り返る」という企画がマスコミを賑わしている。加えて今世紀最後の年でもあるので、「20世紀を振り返る」という、まさに百年に一度の特集まで登場している。音楽CDにも「ミレニアムヒット」の類のベスト版が幾つも発売されているくらいだ。考えてみれば、僕は2つの大きな時代の変わり目を生きることになる(まだ断言はできない。何しろ、まだ1日ある)。ひとつは、昭和から平成への変わり目であり、もうひとつが世紀の変わり目である。
 「大きな時代の変わり目」といっても、考えてみれば自然に流れていく時間に人為的に区切り目を入れたというだけの話であり、本来深い意味はない。別に区切らなくても時間はたつのだから。ただ、人間の意識というのは不思議なもので、たとえ人為的なものであっても一旦区切られた単位ができると、それに縛られるようになる。例えば「昭和」という時代に何かしら共通する空気があったかのように感じられてしまうのだ。よくよく見てみれば、軍部が台頭してくる昭和初期と、高度経済成長からオイルショックへとなだれ込む戦後の後半部分とでは、時代の雰囲気も違えば社会のシステムも人々の生活も意識も全くかけ離れている。なのに人々は「昭和」という一区切りの時代としてとらえ、回顧したり意味づけしたりするのである。同様に、「世紀末」というと何となくある種の雰囲気が漂う。少年による凶悪犯罪が多発したりして、社会に不穏な空気が流れたりすると、思わず「世紀末的状況だね」などと口走ってしまうのだ。
 また、大概こうした時代の単位が意識されるのは、当然のことだがその時代の終わりである。つい去年くらいまで、大抵の人は「20世紀を生きている」などと意識していなかったと思う。今年も今くらいになって初めて「テクノロジーの発達によってグローバル化し、大小の戦争が繰り返された、これまで人類が経験したことのない希有な世紀を自分は生きてきたのか」と感慨に耽るという次第だ。しかも、そういうものだと頭では理解しても、正直いまひとつ実感はわかない。何だか自分の日常生活とはかけ離れている感じがするのだ。
 しかし、こういうこともあながち無意味ではあるまい。その時代のただ中を生きている人間には、なかなか自分たちがどんな状況におかれているのかは見えないものだ。だからバブルが崩壊するなどと夢にも思わずに株を買い続けたり、後先を考えずに世界を相手に宣戦布告してしまったりするのである。とても正気の沙汰とは思えない。だがそれは結果を知っている現在の時点から振り返るから分かることである。まさに人生(歴史)は前向きにしか進めないが、後ろ向きにしか理解できないものである。流れる時間を止めることはできないが、その中で少しの間だけでも立ち止まって、来し方行く末に思いを致すことは大切だ。動きながら正しい現状認識ができればベストだが、それを完璧にやってのける人間はそうそういない(少なくとも僕にはできない)。それに、過去を振り返るのは結構楽しい。そのただ中にいる時には見過ごしていた意外なものを発見したり、その時には気付かなかったある事象の別の側面や意味を再認識したりすることができる。他人が動いている時に自分だけ止まるのは勇気がいるし、「後ろを振り返らない」ことが格好いいとされている。けれど、それまでの経過と現状を冷静に振り返り、その成果と問題点を明らかにすることによって、今後の方向性は見えてくるものだ。わき目もふらず、ただがむしゃらに(あるいは思考停止状態で)前進するのみでは、進路を見誤ったり前方の障害物を避け切れなかったりする恐れがある。僕達のいる社会や人類の歩みを少しだけ冷静に振り返る機会として、「世紀末」が与えられているのかも知れない。そうでもしなければ人類は少しずつでも進歩することすらできないと考えて、我々の祖先の誰かが時間に区切り目を入れることを考えたのだとすれば、その人はなかなか先見の明があったといえよう。
 勿論、それでもなおかつ人間は過ちを繰り返す。そして、何も考えなくてもあと数時間で21世紀はやってくる。悔やんでみても始まらない。けれど、せめて僕達が次に時間の区切り目を迎える時(それはもしかしすると自分の人生の終わりかも知れない)、できるだけ悔いが残らないようにはしたいものである。


hajime |MAILHomePage

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