思考過多の記録
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2000年12月26日(火) You may say I'm a dreamer

 つい1・2年くらい前まで、僕は自分のことを理想主義者だと思っていた。しかし、どうもそうではないらしい。どちらかというと僕は、かつて自分が敬遠していたはずの現実主義者のようである。現実主義というと、何となく現実に負けてしまったことの言い訳の匂いがする。現状追認というのが青年時代の僕には許せなかったのである。
 20代の頃の僕の脚本は夢や理想を追う主人公の話が多く、登場人物達は「変革」や「革命」を叫んでいたものである。彼等は理想を語り、その実現のために行動しようとしていた。現実の自分がそうだったとはお世辞にもいえないが、おそらく脚本の登場人物達に自分の理想像を投影していたのである。若い時代にはありがちなことだが、世の中全てが間違っているような気がしていたのだ。それは、ありうべき理想の状態を基準にして、そこから逆算して現実を認識していたからである。理想と現実がかけ離れているならば、変わるべきは現実の方である。そして、現実を変えなければならないのは僕達だ。そう強く信じていた。そしてそう口にしてもいたし、いろいろな文章にも書いた。そんなこんなで、その頃の僕は所謂「理想主義者」だと自他共に思っていたのだ。
 しかし、いつの世の中でもそうだが、多くの場合理想は現実の前に敗北する。そして僕も実はそのことをはっきり分かっていたのだ。脚本の中でも、変革を企てた主人公達の行動は必ず封じ込められていったし、彼等の夢は常に挫折を余儀なくされていた。また、理想を語る主人公の横で、必ず醒めた目で現実を見つめるキャラクターが登場していた。理想を語ってみせることで、僕は自分が現実に負けたわけではないと思いこもうとしていたのかも知れない。理想主義を標榜することは、現実を変えられなかったことに対するアリバイ作りに過ぎなかったのだ。悲しいけれど、そういわれても仕方がない。この国の多くの革新政党(野党)も、状況としては全く同じである。彼等にはそもそも理想の実現に対するプランも意欲もなかったのである。
 30代も半ばにさしかかろうとする今、僕はかつてのように理想を語ることができなくなった。それは、結局僕達はどう転んでも現実の中でしか生きていけないということを知ってしまったからである。だからといって、かつて僕が標榜していた理想の全てが無意味だったとは思っていない。理想から見れば現実は惨憺たるものであるが、ここを出発点にして、どうしたらその状態に近づいていくことができるのか、そのための問題点は何かを見極めるために、僕は現実を直視しようと決めたのである。そうすることでしか、本当に理想を実現することなどできない。また実現され得ない「理想」は画餅にすぎない。それこそ犬にでも喰われてしまえばいいのだ。変革とは、理想と現実のこの微妙なバランスをうまくとりながら、少しずつ行われていくものなのである。
 現実に負けたくないから、理想(夢)ではなく現実を語る。人はそんな僕を「理想主義者」と呼ぶのだろうか。


hajime |MAILHomePage

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