思考過多の記録
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2000年12月25日(月) 「つながる」ということ

 年賀状の季節になった。最近はネット上でも年賀状をやりとりできるが、やはりまだ葉書が主流であろう。虚礼廃止ということで、一切年賀状を出さないと決めている企業や個人もあることはあるが、こちらもまだ少数派だ。とはいえ、やはり時代の流れには逆らえない。僕自身のことを考えれば、葉書などというもののお世話になる機会は年賀状と暑中見舞いくらいである。手紙(封書)に至っては、メールを導入して以来めっきり書かなくなった。それまで僕は手紙が結構好きで、よく物理的に離れてしまって会えなくなった友人に書いたりしていたものである。
 メールや携帯が広く普及し、多くの人が利用するようになったことに眉をひそめる向きもある。コミュニケーションの密度や内容が薄くなったとか、言われていることは様々だ。実際に携帯やネットの依存症のような状態になる人もいて、問題になったりしている。ただ、やはり便利だ。携帯やネットの利用者の多くがその利点として挙げているのは、すぐに(または任意の時間に)相手と連絡が取れるということである。これは即ち、いつでも誰かとつながった(もしくは、いつでもつながることができる)状態でいられるということだ。この「誰かとつながっていたい」という欲望を具現化したものが、携帯でありメールなのではないかという説には、結構説得力がある。
 大雑把に言って、携帯やメールの登場以前に人とつながる手段は電話であり(ポケベルもあったが、携帯やメール程には広く普及しなかった)さらにその前は手紙であった。手紙という原始的(アナログ)な手段は、その人の筆跡が直接届けられるという点でメールとは異なるし、何よりも紙という実体を伴っているので重みがあるように感じられる。電話は基本的にリアルタイムの話し言葉によるコミュニケーションであるから実体がなく、伝わるそばから消えていってしまう。メールは勿論記録に残るが、筆跡がないため、本当に相手が打ったものなのか、またどんな状態(気持ち)で打ったのか等が読みとれない場合がある。どちらも手紙に比べると無機的な感じがすることは事実だ。言い換えれば、電話線や電波を介して行われる分、非常に間接的なコミュニケーションという感じがするのだ。ある一定以上の年代の人に携帯やメールに対して抵抗感があるのは、無機的=人間味がない=直接相手とつながっていないという図式が頭の中に出来上がっているからであろう。
 だが、本当に手紙の方が直接的なのだろうか。僕は最近逆の感じを持っている。つまり、手紙は自分の手を離れると郵便のシステムに乗り、集配の人や仕分け機を通ったりする等多くの行程を経て漸く相手に送り届けられる。何となく自分の全く与り知らぬところで開封されるというイメージなのだ。本来は手紙を介して相手とつながれる筈なのだが、封をして投函した瞬間にもそれを実感できない。一方メールは電話回線とコンピュータを通じて、データとして相手に届けられる。自分の家のパソコンから相手のパソコンまでは物理的につながっているのだ。携帯はもっと分かりやすい。自分の持っている携帯から発せられた電波が、基地局の機械やアンテナを経て相手の携帯に直接届くのである。ここでも電波という目に見えない一本の道筋が相手に向かって伸びている。しかも、手紙は配達される時間が限定されているし、情報にタイムラグができるが、メールや携帯は「いつでも何処でもリアルタイムでつながれる」のである。
 「いつでも誰かとつながれる」手段を持っているということは、それだけで「誰かとつながっている」状態にあるかのような安心感が得られる。どんな人にとっても孤独は辛いものだ。携帯やパソコンの電源を入れて出会い系のサイトにアクセスすれば、つながりたい相手を捜している人間を見つけることができる。どんな種類(または質)のコミュニケーションであれ、「自分は1人ではない」と実感できるものを手に入れられるのだ。しかし、それは携帯やパソコンの電源を切った時に僕達の周りに広がる現実世界(日常)が、自分と誰かがつながっていることを実感しにくい場所であることの裏返しであるといえはしないか。鳴らない携帯や空のメールボックスを見ることが、だから僕達には最も怖いことなのだ。電話回線や電波という誰かにつながる目に見えない一本の糸は、僕達のか細い命綱のようなものなのかも知れない。
 かくいう僕自身も、本来人目に触れないことを前提として書かれるはずの日記を、こんな場所で書いている。もしかするとこの文章を読んでいる見も知らない誰とつながっているのかも知れないという微かな期待によって、僕は何とか自分の存在を確かめている。


hajime |MAILHomePage

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