思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2003年08月30日(土) 神に魅入られた女(ひと)

 ある暑い夏の日、僕は久々に彼女に電話をした。前日のメールには、仕事が忙しくて年内は会う時間がとれないという趣旨のことが書かれていた。
 その1ヶ月程前、僕は彼女に誘われて、彼女のしている仕事の「ビジネスミーティング」に参加した。都内のビルの一室に連れて行かれた僕は、彼女がそれ以前に僕に語っていた「ビジネス」の大まかな姿を知ることになった。「社長」と名乗る、スーツ姿の黒人系の男が流暢な日本語でミーティング参加者(僕を除いて全て女性)20人弱を前に語った内容は、表向きは日本では売られていないとある健康食品と、「高品質の」ペルシャ絨毯の販売だった。けれど、その話を聞いている間、僕にはひとつの疑念が拭いきれなかった。
 それは、彼女が「ビジネス」と称しているこの商行為が、所謂「ネズミ講」の仕組みに驚く程似通っていることからくるものだった。



 物が動かないのに、物を売る権利をやり取りするだけで金は入ってくる。しかも、リスクはない。そして、今後も成長が期待される。しかも、参加者を階級で分け、より多く売った者が上の階級に昇進して、それに伴ってバックマージンと収入も上がるという触れ込みだ。こんな仕組みが真っ当な商売である筈もない。
 これはいつかは行き詰まる。僕はそう思った。
 僕はそれとなく彼女に、この「ビジネス」がリスクなしに利潤を生み出す仕組みを聞こうとしたが、
「それはあなたが実際にこのビジネスに参加して、上の階級に行けば分かる。企業秘密だ。」
と言われて教えてもらえなかった。
 その上僕が違和感を持ったのは、その「ビジネスミーティング」なるものの雰囲気である。奇妙に前向きな女性達が、社長に1人ずつ英語で指名され、その健康食品の効用を説く。それを拍手で讃える参加者達。これまでテレビで見てきたいろいろな悪徳商法の集会をちょっとアットホームにしたような感じだったのだ。
 彼女は善意で僕を誘ってくれたのだが、疑念が晴れない以上、そんなところに足を突っ込むわけにはいかない。しかし、それ以上に僕は彼女のことが気になった。彼女はこの「ビジネス」を天職と信じ込んで、日本や海外を飛び回っているようだった。こんな怪しい仕事に彼女が巻き込まれていくのを見過ごすわけにはいかないと思い、僕は彼女と2人だけで話してみようと思った。
 その矢先、冒頭に書いたようなメールが届いた。



 「大切な話があるから、2人で会わないか」
僕は電話でそう言った。その日も「ビジネス」のために彼女は飛び回っていて、彼女は出先だった。
「2人で会う時間はない。話ならオフィスで聞く」
その言葉を彼女は繰り返した。彼女が僕との関係をそんな風に考えていたのかと思うと、僕は悲しくなり、怒りがこみ上げてきた。
 僕はこれまで、彼女とはそれなりに良好な関係を築いてきたつもりだった。たとえそれがすぐに交際や結婚に結びつくものではなかったとしても、少なくとも「友達」くらいの関係ではあったと思ったのだ。オフィスで「個人的な」話をすることはあり得ない。つまり、「仕事」絡みの人間としか彼女は関わる意思がないと宣言したことになる。
 彼女がオフィスでしか僕と会わないと言ったのは、僕とのいかなる「個人的な」関係をも否定しているのに等しいと僕には思えたのだ。



 そこで僕は彼女に、彼女の「ビジネス」について思うままを話した。すると彼女はこう言った。
「それはあなたの考えだから。私は自分の目標があって、それにむかってやっている。それを辞めさせようというのはあなたのエゴだ。」



 結局彼女は、僕の言うことに耳を貸そうとはしなかった。
「自分で決めたことにいいも悪いもない」
これが僕との電話の後、彼女から来た最後のメールの言葉だった。
 彼女はよく、どんな状態が幸せなのかと僕に聞いてきた。一体収入がいくらあれば幸せなのかと。確かに、好きなことに全力投球できて、その上最低限の努力で高収入が得られれば、こんなに幸せなことはないだろう。
 しかし、僕にとっては、出会ったばかりの頃からの数ヶ月間、映画や舞台を見に行ったり食事をしたりしながら、2人でいろいろなことを話していたあの時期が、本当に幸せだった。そのころ彼女は派遣会社で仕事をしていた。遣り甲斐という点でも収入の面でも不満を持っていたようだ。だから彼女にとってあの頃は停滞していた時期なのだろうけれど、でも僕にとってはかけがえのない時間を過ごさせてくれたと思っている。



 それだけに、あの「ビジネス」を始めてからの彼女との落差が気になる。今の彼女は全てが「ビジネス」を中心に回っていて、そのこと自体は否定することでもないけれど、その前にあった人間関係までも「ビジネス」に組み込んでいこうとするやり方はやはり疑問だし、あまりにも悲しい。
 僕は「ビジネス」を離れたところで、一人の人間同士の関係を望んでいたのだ。また、そういう関係だったと思っていた。だから、僕は決して「エゴ」で彼女をそこから引きはがそうとしたのではない。どうでもいいと思っている人間になら、僕はわざわざそんなことはしない。僕にとって大切何な人だと思えたからこそ、悩んだ末に、関係が終わることを覚悟して敢えてそういうことを言ったのだ。そしてまた、彼女はそういう言葉の通じる人だと思っていた。



 そう言えば、ある時期から彼女は僕へのメールの署名に、会社名を冠するようになっていた。彼女にとって、あの「ビジネス」は自分を輝かせ、生かしてくれるものであり、そのシステムを信じることが喜びになっていたのだろう。
 その意味で、「ビジネス」は彼女にとっての「神」なのだとも言える。だから、その「神」を信じない僕の言葉は、もはや彼女の耳には届かなくなっていた。繰り返しになるが、彼女にとっては「神」を介して以外には「人間関係」などあり得ないのだ。もし彼女が、僕のことを、また僕との関係性を「ビジネス」とは別次元の存在と認識してくれていたら、もっと別の対応をしてくれていただろう。時間がないなどの物理的な障害ではなく、「神」が僕と彼女を隔てたのである。



 こうして、1年あまりにわたって続いた彼女と僕の関係は終わった。
 こんな悲しい、そしてやり切れない終わり方をするとは、1年前に出会ったとき、僕には想像もつかなかった。
 彼女との関係を続けるためには、僕はどうしたらよかったのか。僕が彼女の「神」になっていればよかったのか。今でも僕は考え続けている。
 世界中で争いは絶えることがない。今日もどこかの国の街角で爆弾を抱えた誰かが、「神」の名を叫びながら起爆装置のスイッチを押している。また、別の「神」の名の下に、人の国に戦車を進め、空から爆弾の雨を降らせる輩がいる。



 僕は、あらゆる「神」を呪う。


hajime |MAILHomePage

My追加