思考過多の記録
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2004年01月20日(火) |
届かない負け犬の遠吠え |
芥川賞受賞作家である某が、今日のとある全国紙の夕刊に文章を載せていた。もの凄く乱暴に趣旨を言えば、自分は今後「芥川賞作家」という「肩書き」がついて回るだろうが、そんな「肩書き」=自分が何者であるかという「答え」に囚われずに、好き勝手に(自由に?)やっていきたい、というようなことだった。
その内容自体は間違っていない。僕が思ったのは、この程度の内容の文章なら、今の僕でも書けるだろう、ということだ。いや、僕に限らずあのレベルのものを書ける人間は日本中に数え切れない程いる。なのに、彼女はその文章で薄謝からも知れないけど金を貰う。そして、僕を含めた大多数の人間は、文章でお金をもらうことはできない。 この違いは、彼女もおそらく気が付いている通り、彼女がもらった「芥川賞作家」という「肩書き」があるのかないのか、ということなのだ。さらに言えば、「肩書き」という自分を規定するものから自由であり続けたい宣言できること自体が、「肩書き」を得たことによる特権に由来しているのである。
確かに、これからの彼女は何かにつけてこの「肩書き」によるプレッシャーを感じることになるだろう。そこでうまく立ち回っていくのは容易なことではなく、ある種の技術と強さ。狡猾さが求められる。そう考えると、まだ二十歳そこそこの彼女に対して同情を禁じ得ないが、しかしはっきりしているのは、僕のように「肩書き」を持たないものは、彼女のように宣言することすらできないということなのだ。 例えば、僕は脚本を書いているが、誰も僕を「劇作家」だと思っていない。そうだと自称することは可能だが、公に求められなければそれは「肩書き」にはなり得ない。つまり、自分が何者であるかをそもそも規定できないのである。その状況で彼女と同じ趣旨の宣言をしても、それは負け犬の遠吠えとしか受け取られないだろう。いや、そもそもごく限られた人以外に、その遠吠は届いてすらいないのである。
僕の野望は、だから彼女のように格好良く宣言することではない。まずは宣言できる「肩書き」を獲得すること、つまり、公に何者であるかを規定してもらうことである。 自ら「肩書き」を欲するなど、彼女からすればこれ程不様でつまらない生き方もないだろう。けれど、そもそも自分が何者なのかは、自分自身には規定できない。 さらに言えば、僕のように言葉による表現を志す人間にとっては、他者によって認められない自己規定はあり得ない。そのときが訪れるまで、僕は僕の言葉を発し続けようと思う。どんなにつまらない「肩書き」でも、それを与えてくれる人がいれば、その時初めて、僕はその人の中に僕が何者なのかという問いに対する一つの「答え」を見付けることができるのである。
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