思考過多の記録
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2004年03月13日(土) After The Carnival

 僕が役者として出演した舞台「After The Carnival」の公演が先月末で終わった。稽古に入ったのは今から3ヶ月前の昨年の12月。その3週間程前まで、僕は自分の作・演出でちょっとだけ出演もするという芝居をやっていた。つまり、今回は舞台と舞台のインターバルが3ヶ月半程ということで、これはここ数年では異例に短い。そして、まるで潮が引くようにその状況がなくなった今、僕は久し振りに開放感と寂寥感が入り交じった複雑な心情に支配されている。そして、そんな心情を噛みしめる暇を与えず、いつもながらの日常の荒波が次々に僕を洗っていく。
 公演期間の最中、制作というスタッフの人が、仕事の都合で少しだけ会社に顔を出した。その夜の帰り際、彼女はこう言った。
「久し振りに会社に行ったら、風景が白黒でした。色がない世界だったんです。」


 芝居そのものに関してはいつもながらに賛否両論があった。ストーリーはあるが、しっかりとつながっていないシーンもあった。しかし、幻の「カーニバル」が街にやってくるというのが重要なポイントになっている。
 僕にとって、そしてこの芝居に携わった全ての人達(お客さんも含まれるのだが)にとって、この芝居そのものが「カーニバル」なのだとも言える。「カーニバル」は日常に対する「非日常」の空間であり、時間である。
 いわば、「白黒」の世界に対する「極彩色」の世界である。
 この時間の中で、僕は確実に幸福だった。それは、本物のカーニバル同様、「非日常」のこの世界では、日常の秩序とは全く違った秩序が形作られていたからである。


 そこは日常の価値観や尺度とは全く違ったもので物事が計られる。
 日常の僕は、安月給で働かされ、何の役職にも就かず、やり甲斐のない仕事をこなすことで時間と労力を費やす、殆ど死んでいるみたいに生きている人間だ。もし僕が会社からいなくなっても、困るのはせいぜい一両日。すぐに僕の仕事は周囲の人間に割り振られ、僕がやるよりも遙かに効率的で正確に処理されて行くに違いない。課長は働かない部下が1人減ったことで安堵し、財務担当重役は1人分の人件費が浮いたことで幸福感を味わう。
 けれど、「非日常」のあの時間の中で、僕は全く違う価値尺度で計られ、全く違った人間に見られる。「白黒」の世界では殆ど何の役にも立たない能力も、ここでは世界に彩りを添えるために使われる。そして、この世界で、人は僕の存在を認める。勿論、この世界にも辛いことはあるし、より高い能力を持った人達の前では、僕の存在など霞んでしまうだろう。しかし、確実に言えることは、この世界では、人は僕の存在を確実に認める、何より、僕はそこにいなければならない存在なのだ。
 そして、そのことによって、僕は自分の存在意義を確かめる。自分がこの世の中で生きていてもいい、生きている価値がある人間だということを、僕は実感することができるのである。



 けれど、「カーニバル」の時間は過ぎ去る。そしてまた色のない日常がやってくる。日常の時間は、「カーニバル」の時間より遙かに長く、重い。人生の大半は色のない日常の時空の中に存在している。だから、僕はまた自分の存在意義を見出し得ない、自分が生きる価値のある人間だと思えない日常に呑み込まれていく。
 それでもなお、僕はあの時間を生きた記憶と実感を胸に抱くことで、この日所を生きていくことができるだろう。何故なら、極彩色の時間の中、僕は確実にある価値を持った人間だったのだから。僕は生きているという実感が持てたのだから。



 公演から1週間が経った先週末、公演参加者による打ち上げが行われた。3ヶ月前まで全く話したこともなかった人達とも、あの時間を共有した今では、そのことを通じて共通言後を獲得した仲だ。僕達は大騒ぎで酒を酌み交わした。
 しかし、打ち上げの終わりは、この仲間達との別れを意味する。極彩色の模様を作り上げてきたこのカンパニーは解散し、また一人一人に戻っていく。寂しさのあまり、涙を流す者さえいた。それは、みんなにとってこの場所が、この時間がかけがえのないものだったことを物語っていた。
 僕は、帰り際に一緒に舞台を作った人達と握手を交わした。それは、惜別と激励、感謝の気持ちを交換する握手であっただろう。しかし、何よりもそれは、彼等と僕とがある種の「同士」になったことを表していたのだと、僕には思えてならない。



 今回の「カーニバル」の時間は、あの日で終わった。そしてそれは、昨年夏から続いた芝居三昧の日々という「カーニバル」の終わりでもあった。駆け足で過ぎ去った「非日常」の後から、長い日常の時間が始まっている。しかし、いつの日か、どんな形にせよ、再び僕は別の色を求めて、あの時間を作り出したいと思う。僕が生きているあの時間を。様々な色を持った人達が、一つの模様を形作り、極彩色に染め上げるあの空間を。



 「カーニバル」の終わりは、新たな「カーニバル」の始まりに向けての序章の幕開け。
 僕は今、そう確信している。


hajime |MAILHomePage

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