思考過多の記録
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いつからだろうか、世の中の流れの速度が、えらく速くなっている気がする。 一つのことが起こって、その波紋が広がり始めるやいなや、また別の大きな衝撃が走るといった具合だ。おかげで、一つ一つの出来事の衝撃の度合いが薄められることは勿論、一つ一つの出来事の背景にあるものや起きた原因、またその広がっていく波紋の先に至るまで、およそ「批評」や「分析」といったものが十分にされないままになっている。特に、時間をおいて見てみると、その時には見えていなかったことが見えてくることがあるが、こういった「分析」や「検証」が結構なおざりにされている。 というよりも、次から次へと起こる日々の「刺激的」な出来事のシャワーを浴び続けることにかまけて、この国では多くの人々が忘れっぽく、また飽きっぽくなっているようなのだ。
この「思考過多の記録」でも、周囲の思考のスピードについていけない、という意味のことをかつて書いたように思う。最近、ますますそう感じるようになった。もっともそれは、僕自身の「思考」しようとする気力の低下とも関係していて、特に仕事が忙しい昨今は、日々考えていることを文にまとめる気力を絞り出すのがなかなか難しいのが現状だ。
とはいえ、昨今のblogの流行を見ると、世の中のことや自分のこだわることについて一家言あり、なおかつそれを発信したいと思っている人は結構多いのだなと思う。確かに、一言でもいいから、泡沫のように浮かんでは消えていく日々の思いや思考を書き留めておくことは、健忘症と飽きっぽさから逃れるための意義深い作業なのではないかと思われる。 また一方で、全体の流れは流れとして、ある一つのことを突き詰めて考え続けるということも、やはり必要である。それは、泡沫のように浮かんでは消えていく事象の、生まれてくる瞬間と消えゆく瞬間を捉え、その組成と崩壊のメカニズムを説き明かそうとする営みに他ならない。
非常に単純化していえば、前者が「ジャーナリズム的思考」、後者が「アカデミック的思考」とでも言えようか。ごく希にだが、その両方を同時にこなそうとする、またこなしてしまう強者もいる。 僕にとっても、どちらも兼ね備えた思考をすることが理想だ。しかし、最近の僕は、それを同時に行うことに挑んで、結局気力が追いつかずにどちらも断念するパターンに陥っている。世の中の動きが加速しているのか、はたまた自分の情報処理能力と精神的・肉体的持久力が低下しているのか。おそらくそのどちらでもあるのだろう。 しかし、いずれにしても、健忘症に陥っていることと怠惰になっていることに無自覚なまま、ただ流れに身を任せているだけになることには抗い続けていきたい。浮かんでは消えていく泡沫の、水面に広がる波紋を追い続けることだけは止めずにいたい。本当は今を生きる誰もが、この世の中の激流と、そこに投じられた礫による様々な波紋が作り出すうねりに翻弄されることから逃れられはしないのだから。
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