思考過多の記録
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2004年08月14日(土) 喧噪から遠く離れて

 アテネオリンピックが開幕した。またあの喧噪の日々が始まるのかと思うと、正直言って少し気が重い。
 閉幕までの期間、僕達はみんなナショナリストになることを強いられる。まるで自分の国の選手を応援しない者はこの国にいる資格がないといわんばかりの、熱狂と忠誠心と感動の押しつけのオンパレードだ。僕は元々「国」というものをまるっきり信用していないばかりか、嫌悪感すら抱いている。その上、スポーツ独特の「精神論」と「熱狂」をベースにした雰囲気が嫌いだ。その2つが重なり合うオリンピックは、僕にとっては最悪のイベントである。



 オリンピックに先立って、重慶で行われたサッカーのアジアカップの試合で、日本チームとそのサポーターに中国人サポーターから激しいブーイングが浴びせられ、国際問題に発展しそうになったことは記憶に新しい。この時、小泉首相をはじめとして何人もの人の口から、
「スポーツと政治は分けて考えるべきだ」
という発言があり、これに賛意を示す人も多かった。そうできない中国人(サポーター)を「幼稚だ」「民度が低い」とする論評もあった。しかし、「国際試合」において、スポーツと政治を分けて考えることは、果たして可能なのだろうか。



 これもいろいろなところで語られたことなので繰り返しになるが、中国人サポーター、特に重慶における彼等の行動の背景には、当然日本の中国侵略の歴史の記憶がある。重慶の町は、日中戦争期に日本軍による度重なる空爆を受けた。これが世界的にも無差別戦略爆撃のはしりだという。死者は数万人にのぼる。それ以外にも、重慶では多くの中国人が日本軍によって殺されたそうだ。
 そんな歴史を、そこに暮らす人々が簡単に忘れるわけがない。あの一件の原因を「中国の愛国心(=反日)教育の影響」や、「中央政府に向けられない鬱屈した不満のはけ口としての日本」などにみるむきもあり、確かにそういう面があることは否定できない。しかし、それが生み出される土壌には、今書いたような歴史が横たわっている。
 しかも、日本政府は、いまだに中国の人々に対して率直な謝罪の意思を伝えてはいない(と、中国人の多くは感じている)。あまつさえ、繰り返される政治家の「放言・失言」や小泉首相の靖国参拝に象徴されるように、日本があの戦争を根本から反省しているのか疑念を抱かせる行為は後を絶たない。それらは、確実に中国の人々の神経を逆撫でしている。



 さらに問題なのは、中国に行った日本人サポーター、もっと言えば多くの日本人が、そういった戦争の「歴史」を知らないことである。日中間にかつて戦争があったこと自体を知らない人もいるだろう。そこまで酷くないとしても、実際に何処で、どんなことが行われたのかを殆ど知らない人は多い。そういう人達にしてみれば、何故中国人がこれ程騒ぐのか、そして日本人に敵意を向けるのか、全く理解できないに違いない。そして、「何もそこまでしなくても」という中国人に対する不信感や、逆の敵意を抱く人も出てきたことと思う。
 こうした「国民感情」を背景に、日本政府は国歌演奏中にブーイングが行われたこと等に対して「遺憾の意」を中国政府に伝えた。が、僕は先に書いた理由で、それは日本が言える立場にはないと思っている。少なくとも、日本人は今回のようなことが起きた背景について、中国人の国民性や、中国社会の後進性のせいにする前に、二国間に横たわる「歴史」について改めて知る・伝える努力をするべきだと考える。真の友好は、その後からしか始まらない。



 そして、中国人(サポーター)があれ程「熱狂」的にブーイングをとばした背景には、何と言ってもあれが「国際試合」だったことにあるだろう。サッカーの「日本チーム」対「中国チーム」の試合の筈が、それを見つめる人々の頭の中では「日本」対「中国」という「国」と「国」との対戦に置き換えられていたのだ。当然そこには「国」や「民族」という共同幻想と、それらが持つ「歴史」が入っている。国内の2つのチームの対戦では決して現れない「妖怪」が、人々の心を支配するのだ。



 国際試合において、スポーツと政治的な問題は決して切り離すことはできない。その最も顕著な例が、他ならぬオリンピックである。かのナチス・ドイツを例にひくまでもなく、これまでオリンピックは「国威発揚」のきわめて有効な手段として利用されてきた。というよりも、近代オリンピックというものは、まさにそういうものとして誕生し、機能してきたといっていい。アスリートが純粋に技を競うだけの、いわば「純粋スポーツ」の祭典としての近代オリンピックなどというものはあり得ないのである。次回の北京オリンピックを、中国政府がそういうものとして最大限に利用するであろうことは想像に難くない。



 参加者が「国」や「民族」を背負って出場し、国同士でメダルの数を競い、それに各国の国民が一喜一憂しているところで、どうやってスポーツと政治を切り離せというのだろうか。日本チームに「○○ジャパン」と名付けたり、野球の‘長嶋ジャパン’の長嶋監督が、いみじくもチームの目標を「フォア・ザ・フラッグ=(国)旗のために」と言ったりしたように、オリンピックはまさにナショナリズムや民族主義のぶつかり合いである。国を挙げての応援と「熱狂」、それが知らず知らずのうちに「国」に対する帰属意識と忠誠心を高めていくのだ。それは、時に「歴史」に対する無知、または「歴史」に込められた怨念のために、他国に対する攻撃性を醸成する土壌になっていく。



 冒頭に述べたが、僕は「国」というものを全く信用していない。だから、オリンピックに対してはいい印象はない。個々の選手の活躍が、「日本人の活躍」と紹介されてしまい、個々の選手が獲得したメダルが「日本人のメダル」となって、街頭インタビューでみんながそれについて嬉しそうにコメントしなければならないようなスポーツイベントが、健全なものである筈がない。
 だから僕は、できることならこの喧噪から遠く離れていたいと思う。にわかナショナリストのふりをするくらいなら、「天の邪鬼」「へそ曲がり」という批判を受ける方がよっぽどましだと思えるのである。


hajime |MAILHomePage

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