思考過多の記録
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2004年08月29日(日) 「実感」と「記憶」

 案の定、この夏はメディアも世間もオリンピックで明け暮れて、この時期のもう一つのイベント(?)、太平洋戦争関連の話があまり盛り上がらなかったように思う。確かに、敗戦後60周年を来年に控え、今年は何となく谷間の歳という感じがしなくもなかった。
 しかし、この国を巡る情勢を考えてみれば、昨年のイラク戦争以来、自衛隊の派遣、多国籍軍への参加や有事関連法案の成立、憲法改正に向けての動きなど、大きな曲がり角を曲がった1年だったといっていい。ここで今一度、あの戦争を振り返ってみるというのは、実はとても重要で大切なことであったのだ。



 僕も少し前までは、正直言ってこの時期の「戦争もの」の反乱に辟易していた。まるで毎年恒例の行事のように、この時期だけ「あの戦争」の感慨に浸り、その悲惨さを訴え、嘆き、そして不戦を誓うというお決まりの文法に飽き飽きしていたのだ。
 けれど、ここ数年の流れを見るとき、たとえルーティンに思えても、この時期に必ずあの戦争を思い出し、振り返ることは必要不可欠なのだと思えるようになってきた。その理由は、あの戦争の「実感」と「記憶」が、急速に、かつ確実にこの国の社会から失われてきていること、そして、そのことによって、この国の社会の空気が確実に変化してきていることを、肌で感じるようになったからである。
 僕が終戦の日近辺のイベントに少々うんざりしていたのは。「分かっていることをしつこくやらなくても…」という思いからだった。しかし、それは間違っていた。つまり、「わかっていない」人が僕の想像以上に、この国には多かったのである。




 前々から話題にはなっていたのだが、8月15日が何の日なのか全く知らないという人は、僕には信じられないが確実に存在する。そして、どうやらその割合は増えているようなのだ。そういう人達は、勿論あの戦争の詳細を知らないから、かつて日本がアジアの国々、とりわけ中国や韓国に何をしたのかも当然知らない。彼等には、「今」の社会が全てである。そして、今の「平和」な社会がどんな歴史の上に築かれたのかを知らず、また知ろうともせず、「平和」を「平和」とも思わずに、それが当たり前のことだと思って暮らしている。
 そして、本当の戦争を知らないから、小林よしのりや石原慎太郎のようなイデオローグにちょっとアジられると、簡単に騙されてしまうのだ。



 終戦の日の頃に「報道ステーション」という番組で、東京の空襲の跡を歩くという特集をやっていた。空襲直後の写真を持って現在のその場所に行くというものである。最後に渋谷の街角で、一人の高校生くらいの男にインタビューした。
「僕は、戦争に反対じゃない。戦争をしなければ答えが出ないときもある」
とへらへらと答えたその男に、インタビュアーである新聞社の解説委員が、その場所の空襲直後の写真を見せる。一面の焼け野原に、辛うじてコンクリートのビルが一棟だけ残っている光景だ。彼等はそのビルの前に立っていた。
 写真を見たその若者は、
「えっ、これはここですか?」
と絶句。やがて彼は、
「さっき僕は戦争に反対じゃないと言ったが、この写真を見ただけだが考えが変わった。だって悲惨ですよ、これは」
と言ったのだった。



 このやり取りは非常に象徴的である。おそらく、彼はこれまであの戦争の実態を全く知らなかった。あまつさえ、それがどんなものであるのかを、具体的に想像してみることもしてこんなかった。そして、「戦争」を頭で理解したつもりになっていた。だから、最初の発言が出るのである。
 「事実」を知らず、想像力も欠如した人間がこの国社会の一定数を占めたとき、この国が再び観念上の「戦争」を求めて暴走を始める可能性は高い。いや、既にその助走が始まっているのかも知れない。これまで、この種の「いつか来た道」論は、ある種の運動をやっている人達が郷愁を込めて語る「決まり文句」に感じられたことも、正直言ってなくはなかった。しかし、今やそれは郷愁ではなく、現実になりつつあるのだ。



 戦争を実際に体験した方々は、そろそろ高齢になりつつある。これから先、あの体験を語ることは体力的にもさらにきつくなっていくだろう。また、精神的にも語ることに対して抵抗感のある方もまだいるに違いない。勿論、既になくなってしまった方も多い。
 この状況の中、戦争体験者の方々には、しんどいけれども是非あらゆる機会を通じて、自分の体験を語り、戦争を知らない世代に伝えていってほしい。繰り返すが、その戦争を肌で感じ、戦争の実態を体験として知っているのは、その人達しかいないのである(カンボジアやイラクに派遣された自衛隊員達は、戦場から遠く離れた場所にいる(いた)のであり、戦争を体験したことにはならない)。この国に戦争の「記憶」と「実感」を確実に残すためには、それより方法がないのである。
 そして僕達は、あらゆる機会に、いろいろな人達が語る戦争体験に触れ、できるだけ想像力を働かせてその実態を掴む努力をしなければならないだろう。勿論、それができるためには、普段から想像力に磨きをかけておかなければならない。空爆が行われているその下では、何が起こっているのか。そのことを想像してみるだけでも、「戦争をしなければ答えが出ないときもある」などと軽々しく口にすることはできなくなる筈だ。



 来年は敗戦60周年である。マスコミは大々的にキャンペーンをはるに違いない。「あの戦争の悲劇をわすれてはならない。そして、二度と繰り返してはならない」と。しかし、秋風が吹き始める頃には、また何事もなかったかのように全て忘れ去ってしまう。そんなことの繰り返しでは、「いつか来た道」はますますはっきりと僕達の前に姿を現すことになるだろう。
 毎年戦争特集が繰り返されるのは確かに食傷気味だが、しかしこの時期に、過去の歴史を繰り返し繰り返し思い出し続け、反省する機会を持つことが、同じ過ちを繰り返すことを回避するためにはどうしても必要なのである。



 それでも人間は過ちを犯す。それも、何度でも同じ過ちを。歴史はそれを照明している。だから、用心のしすぎということはない。
 もしこの次に過ちを犯すとすれば、それは今を生きている僕達に他ならないのだから。


hajime |MAILHomePage

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