思考過多の記録
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2004年09月05日(日) 越え難い溝

 僕の後輩のある女性は、結婚して2年が経つ。彼女はちょっとした個人サイトを開設している。確か、結婚直後からだったと記憶している。よくある日記サイトだが、最初は文章だけだった。その後、携帯からでも画像の投稿が可能な場所に移動した。それと同時に、日常の中のちょっとした風景を、携帯のカメラで撮って、文章とともにアップする形態に変わっている。



 月日とともにその内容は少しずつ変わっているのだが、パートをしながらも基本的には専業主婦である彼女の日記の内容には、当初から大きく分けて二つのカテゴリーが存在する。
 第一は、身辺雑記のうちでも、彼女の関心のあること。趣味だったり、音楽だったり、食べ物のことだったり、内容は様々だ。彼女の個性や人柄がよく表れていて楽しい。そして、第二に、家庭のこと。すなわち、夫婦に関することである。
 僕は開設当初から彼女の日記を読んでいるが、正直言って、最近この第二のカテゴリーの話にはついていけなくなっている。理由は、僕が家庭も夫婦も持ってはいないからである。
 個人の日記としては当たり前のことだが、彼女は自分の家庭や夫婦の生活、そして妻としての自分を十分に客観視し、対象化して文を書いているとはいえない。それが、同じ立場にはない僕としては、読んでいて辛い部分なのだ。



 彼女が日記に記している、日常的に感じたささやかな「幸せ」や「不安」は、確かに頭では理解はできるけれども、同じ立場、つまり配偶者や家庭を持っていないと、実感を伴って分かることができないのである。僕が読んでいて何か疎外感を覚えてしまうのは、そこに理由がある。
 そして、それを裏付けるように、彼女の日記に感想を書き込む常連さんは、みな彼女がネットで知り合った(と思われる)、家庭を持った「奥様」方なのだ。彼女達は、ある実感を共有している。ある日記の一文をとっても、それに対する共感の度合いや深さが、おそらく僕のような単身者とは違っていると思うのだ。もし、そこの常連の人達と僕とが、ネット上、または実際に会ったとしたら、共通の話題がなく、感覚も違うため、会話は完全にすれ違うだろう。
 彼女は、そういう人達と一つのコミュニティを形成しているのだ。
 こうして、僕はそのコミュニティには参加できなくなっていく。



 以前、僕の別の後輩が、高校の同じ部活出身者の一部の人達が始めたMLに参加していたものの、いつか殆どの投稿が特定の人達によるお互いの「家族/夫婦ネタ」で占められていった時に、
「どうも最近は、話題に入れない」
と、投稿しなくなり、やがて離れていったことを思い出した。
 彼女の場合、特に女性であることと年齢の関係から、世間的にいうと例の「負け犬」に所属するという思いがどこかにあったことは想像に難くない。僕自身は、自分を「負け犬」とは思っていないつもりだが、内心忸怩たるものがあるのも事実だ。そういう事情も絡んで、「家族/夫婦」を持つ者と持たざる者との間には、越え難い溝が知らず知らずのうちに形成されていく。



 しかし、考えてみれば日記を書いている彼女と僕はかつて芝居仲間で、実際に一緒に芝居を作ったことも、同じ舞台に立ったこともある。その後、彼女は芝居をやめて「普通」に生きる道を選び、僕は「普通」に生きようとして生きられずに、変則的な形で芝居を続けている。そして、いつの間にか僕は、芝居を続けている人達のコミュニティに参加している。
 そんな僕のサイトに、彼女はごくたまに書き込みをしてくれていたが、最近はそれもなくなった。彼女は、このコミュニティに、自分の居場所がないと感じたのかも知れなかった。僕が別の投稿者と交わす何気ないやり取りが、彼女に疎外感を与えていたのだと推測できる。
 おそらくそこには、芝居への志を(強さや形の違いはあっても)持つ者と持たざる者との間の、越え難い溝が形成されているのだろう。



 全ては無意識のうちに、僕達の周りにはこうした溝が縦横無尽に張り巡らされていく。それを受け入れてなお、僕はその向こう側の人と関係を結んでいけるのか。それとも、そのまま疎遠になり、自分のコミュニティの人達との関係を強めることだけに専念していくことになるのか。
 その相手がかつてはもっと近くにいた人だけに、自分がこんなことを考えてしまうこと自体が、何だか悲しい。
 それが時が流れたということであり、生きていくということなのだと分かっていても、やっぱり悲しい。


hajime |MAILHomePage

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