思考過多の記録
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安倍首相の突然の辞意表明の後、自民党内は蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。具体的な政策論争などが何もないまま、既に大勢は「福田」に決しつつあるというのが、いかにもあの党らしい。
それにしても、事の発端となった安倍首相のこのタイミングでの辞意表明は、健康上の理由もあったとはいえ、多くのメディアで語られているように、本当に国民不在で無責任な行動であると言わざるを得ない。 参議院選挙の大敗後に続投を宣言し、「人心一新」と称して内閣改造を行い、外遊に出かけて勝手にペルシャ湾での自衛隊の給油活動の継続を「国際公約」にして「職を賭す」と口走り、帰ってきて国会を召集して所信表明演説を行い、その代表質問を受ける日に辞任を表明する。タイミングが計れなすぎると思うのは僕だけではないだろう。 おまけに、辞任の理由の一つを、「民主党の小沢代表に党首会談を断られたから」とした。だだっ子じゃあるまいし、人のせいにしてもらっては困る。また、「私が辞めることで、局面を打開しようと考えた」とも言っていたが、それを言うなら参議院選挙惨敗の直後だろう。あのとき、「反省すべきは反省しながら」と意味の分からないことを言って居座った理由は何だったのか。 本当に分からないことだらけである。
「美しい国」から始まった安倍政権は、本当に何もかもが今の世の中の現状と噛み合っていなかった。小泉改革で日本の国自体がズタズタになり、格差の問題やワーキングプアの問題、医療制度改革の問題等、その弊害がどんどん表に出てきて国民が痛みに苦しんでいるときに、「美しい国作りを目指す」「戦後レジームからの脱却」「再チャレンジの機会を」「憲法改正のための法整備」と、まるで国民の置かれている現状とは無関係な、謂わば自分だけの世界に閉じこもっていったのだ。 彼の言葉は、全て空虚で、彼の妄想でしかなかった。今、何にどう取り組まなければならないのか、結局最後まではっきり示せず、「美しい国」「戦後レジームからの脱却」という妄想に囚われて、実態が見えていなかったのである。 彼は「国」という「共同幻想」のカタチを変えようとした。実際にそれは、教育基本法の改正や、防衛庁の省への格上げなどの政策となって現れた。しかし、その「国」を実際に構成している国民は、もっと切実な問題に直面し、日々様々な局面で苦しめられてきたのだ。
そのピンぼけぶりが分かるのが、例の「教育再生会議」である。教育の専門家を殆ど入れず、「教育基本法の改正」とか「教員免許更新制度」「教育バウチャー制度」等、現場レベルで見たら百害あって一利なしの方策をどんどん決めてしまった。そこには、現場の教員の意見はまるで反映されていない。まさに、「印象」「抽象」「妄想」のレベルで論議は進んでいった。 経済政策も然り、外交・安全保障政策も然りである。「妄想」で動いて現実を見ていない。だから問題にぶつかってうまく前に進まなくなる。置き去りにされ、迷惑を被るのはいつも国民だった。 国民は「消えた年金」をどうしてくれるのかと思っているときに、「憲法改正」を夢見ていて、あちこちから指摘や突き上げを受けて慌てて動き出すというのは、一国の首相としての資質が問われてもやむを得なかった。
要は、総理の器でもなく、能力もない人間を1年前に選んでしまったのだ。その意味で、自民党の責任は大きい。「責任政党」だと胸を張ることは、今後許されまい。勿論、それを支え続けた公明党も責任は免れない。 しかし同時に、発足当初に60%以上の支持率を与えてしまった国民も、反省すべき点があるのではないか。あれはただの「印象」「期待」による支持だった面が大きい。今となってはそれは全くの眼鏡違いだったことがはっきりした。 小泉改革の「負」の遺産が国民を直撃し始め、それに対して政府は何ら有効な手が打てず、閣僚の不祥事が重なり始めた頃から、漸く目が覚め始めたように支持率が下がっていった。しかし、我々国民は、もっと慎重に政治家を、就中一国のリーダーたる総理大臣の資質や政策を見極めるべきではないか。さもないと、どの党が政権を握ろうが、同じ過ちが繰り返されることになる。
はからずも、昨日テレビのインタビューに答えた武部党改革推進委員長は、「選挙で勝てる人を選ばなければならない」と、1年前の自民党の人々と同じ発言をしていた。事の本質をまるで理解していない。 もし今雪崩を打って福田支持を打ち出している自民党の人達が同じ意識だとすれば、まさに末期的症状であり、自民党に明日はないというべきだろう。
辞任表明の会見で、国民に対してひと言の謝罪の言葉もなかった安倍首相。最後まで彼は「国」という「妄想」だけを見ていたのかも知れない。
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