思考過多の記録
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今日は、ここ2回ほど僕の演劇ユニットFBIの舞台写真を撮っていただいている名鹿さんという方の写真展「写真が夢を見たような写真」を見に、高円寺に行ってきた。 写真は店内に飾られているものと、ファイルされているものがあり、内容も、東京の街角を捉えたものと、初島の風景写真とがあった。初島の写真の中には、猫の写真も結構あって、これに結構癒された。 色合いの面白さや、陰影の濃い写真等があり、人物画とは違う彼の一面が見られた気がした。
僕が行くと言っておいたので、名鹿さんは店にいるはずだったが、ちょうどお友達を迎えに行ったところだった。お店の人が電話をつないでくださった。 やがてやってきた名鹿さんとお友達と僕の3人で、店の外に設置されたテーブルで話をした。彼はストリートパフォーマーや舞台写真等人物写真を中心にしているのかと思っていたが、意外にも原点は風景写真だそうである。 人物はどの瞬間を切り取るのかが難しいが、風景は何処を切り取るかが難しいと思う。どちらにも共通の部分もあるだろうが、素人と考えではそういうことになるのではないか。
話は自然と「メジャーになるには」という方に流れていった。 写真で食えている人は本当に少数である。名鹿さんのお友達は文章(小説)をコンスタントに同人誌に発表されている方だそうだが、今純文学で食うのも難しい。言わんや演劇をや、である。 結局の所我々3人の達した結論は、「メディア、特にテレビに露出しなければ売れない」という、当たり前といえば当たり前の結論だった。作家でも写真家でも役者でも、テレビに出ることによって全国的に存在が知れ渡る。「世間一般」に認知されるのだ。そうなって初めて、知り合いでないお客さんが劇場に詰めかけ、同人誌でない場所にお金をもらって文章が発表できるようになる。 「メジャーになる」とはそういうことである。 逆に言えば、テレビに出られない限り、「知り合い通しの発表会の見せ合い」から抜け出す方法が、今の日本ではないのだ。
ということになってくると、「売れるかどうか」の基準は「テレビに出られる(出せる)ものかどうか」=「大衆が求めているもの/視聴率がとれるものかどうか」ということになる。 「売れる」ことに重点を置こうとすれば、まずはテレビ的にありかどうかを検証しながら表現を行っていくのが早道となる。それも、「ちょっとだけ尖っている」「ちょっとだけ新しい」要素が含まれていなければならない。時代が「今」もしくは「もう少しだけ先」に求める空気を持っていなければならない。テレビが取り上げるのはそのようなものである。
しかし、ここに何かおかしな倒錯があるような気がするのは僕だけだろうか。 演劇を例にとれば、筧利夫や古田新太、佐々木蔵之介、勝村政信、トヨエツといった人達は、もともと舞台で人気があり、力もあったので、それをテレビが拾ったのである。それが今や、テレビで有名になった人が出ないと、劇場の席が埋まらない。 どうも順番が逆のように思えてしまう。 作家においても然りだ。賞を取り、メディアに露出してインタビューを受けたりコメンテーターになったりすることで、注目を集め、本が売れる。 そういう人達が、「芸術で飯を食っている」という状態なのだ。 言ってみれば、テレビに食わせてもらっているようなものである。 一般の人達にとっては、やはりテレビに出たというだけで、昔ほどではないにしろ、何らかの権威付けが行われ、「凄い人」のように見えてくるわけだ。
ネットがここまで普及した今でも、例えばケータイやネットから火がついて有名になる小説家などもいるにはいる。しかし、その認知度はテレビのそれと比べるとまだまだだ。 多くの人間が「発信」する手段を得ているにもかかわらず、いまだにテレビの特権的な地位は揺るぎない。 まさに、「テレビ帝国主義」である。 この国では、特に芸術を志す者は、みんなテレビに媚びを売るような表現を発信しなければならないのだろうか。 芸術だけではない。政治的な言説も、エンターテインメントも、流行も、感情の基準も善悪の判断も、全てテレビが基準になり、それが大衆に浸透していく。それを覆すことの出来るメディアは、残念ながらまだない。 この閉塞状況は、いつまで続くのだろうか。
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